問題文の出典は、livedoor.blogimg.jp
1998年 東京大学 後期 第3問
1998年 東京大学 後期 第3問
1998年 東京大学 後期 第3問

鬼畜ともいえる難易度の参考として、以下のような強烈なエピソードがあるので、引用させてもらった。

入試数学伝説の良問100―良い問題で良い解法を学ぶ/安田亨/2003年 から引用。

大学受験史上第1位にランクされる超難問である。難しいのは(2)で、実験をすると予想できるが完璧に論証するのは並大抵ではない。問題入手のとき、A予備校では解答作成を中断、帰宅することになったと聞かされた。最悪、翌日も解けないときはどうするかも話し合ったらしい。

翌朝B予備校関係者から電話があり、予備校の解答を出さなければならないから至急解いてくれという。そこでフランスに長期滞在中の友人C(大学助教授)とメールで連絡を取り、概要を説明し、解くことにした。何度かのやりとりの後、解答を作り上げたのは翌日のことである。

 この正三角形の変換は大学の群論の最初に出てくる話だが、それを初等的な問題に応用したのは初めての経験である。

試験では完全解は無理でも十分性などの部分点はとれるだろう。その意味では良問といえるかもしれない。なお、A予備校の解答はCの知人のD教授が書いたものを参考にしたらしい。

さらに、Neural Fireworks から引用。

“誰もが入試史上最難問と認める問題がある.東大が本気を出していた97~98年にその問題は現れた.数学オリンピックに出題されても解ける人はいないだろうと言われたその問題は1998年東京大学後期数学第3問.長いので問題文は省略するが,ネットでもそこらじゅうに転がっているので,一度見てみるといい.

グラフ理論を題材にしたこの問題では答えはすぐに分かる.しかし論証は最強の難問で,完答者はゼロ.

私は当時勤めていた予備校にいた.私がいた予備校は後期日程に関しては解答速報を出さないため,私は個人的にせっせと解いていた.しかし,第3問(2)で鉛筆が止まる.1時間以上考えたが論証が思いつかない.横で解いていた同僚も同じ.相当な難問だと思っていたが,さすがに大手予備校はもう解けているだろうと思い,河合塾で働く友人に電話する.しかし,河合塾はまだ解けていなかった.

大手予備校は東大の解答速報を当日にだす.しかし,どの予備校もなかなか解答速報が出ない.河合塾はその日の解答作成を断念,翌日にまわすことになったが,それでも解けなかったらどうしようと悩んだらしい.駿台も手も足も出ず,解答作成を急遽大数の安田先生に依頼した.

事態を把握してようやく,これは入試史上過去に例がないほどの超難問であると理解し,国際数学オリンピックメダリストの友人に電話する.ちょうど彼も別の予備校から依頼を受けて問題を解いている最中だった.その後,かなりの時間を要して友人は解答を出してくれた.

当時の東大は何がやりたかったのだろうかといまだに思う.97年・98年は前期後期ともDレベルの難問が続出(6題中Dレベルが3題,Cレベルが3題というセットもあった).たった2時間半では全完できた人は一人もいなかったであろう.良問もあったが,あれほど難しくしては差はほとんどつかない.

東大後期で数学がなくなった現在ではあのような難問が出題されることはあるまい.東工大AO入試も難問が多いとはいえ,本問に比べればはるかに簡単であろう.無理のない難問にレベルが抑えられ,適度に差がつくようになったが,たまに難問が大量に出題されていた当時を振り返り懐かしむことがある.”




群論に関連して、伝説の超天才数学者ガロア(フランス)のエピソードを紹介しておきたい。

5次方程式の解の公式

2次方程式の解の公式は古くから知られていた。3次方程式と4次方程式の解の公式が16世紀中に発見されて以来、数学者たちは5次方程式の解の公式を探し続けたが、200年もの間見つけることが出来なかった。19世紀になって、ようやく大数学者アーベルが5次方程式には代数的な解の公式が存在しないことを証明し、この問題に終止符が打たれた。少し遅れて、アーベルのことは知らずに10代の少年ガロアがアーベルの証明を大幅に簡略化した方法を発表する。現在では群論と呼ばれる理論を用いたものであり、当時の水準を遙かに超えていた。

 
人類の至宝エヴァリスト・ガロアの悲劇的な最期

galois

数学にすさまじい情熱を抱き、圧倒的な才能を秘めていたガロアだったが、激情型の性格で革命家として政治的な活動にも参加していたことが数学史上最悪の悲劇へとつなっていく。ガロアは17歳の頃から5次方程式に関する論文を提出するようになり、コーシーやフーリエという超一級数学者の目に止まったこともあったが、二度の論文の紛失などの不運が相次ぎ結局評価されないままだった。ガロアはこれらの不運は政治的な理由による故意のものだと考えるようになっていった。20歳のとき、男女関係のもつれから決闘を申し込まれる。この決闘は政府のハニートラップによるものだという陰謀説もあるが、真実は不明である。自分の死を悟ったガロアは決闘の前日から徹夜で自身の見つけた数学的発見やアイディアを必死に書き残し、友人に「ガウスやヤコビ(どちらも超一級数学者)にこの論文を送り、定理が正しいか否かではなく重要か否かを聞いてほしい」と託した。ガロアには自分の理論が正しいという確信があった。その重要さを理解できる人間を求めていたのである。遺書には「僕には時間がない」という悲痛な走り書きなども見られた。ガロアは決闘に負け、その若い命を散らした。人類は、10代にして当時の数学を遙かに超える領域に到達したこの偉大な超天才数学者を永久に失った。

友人や弟は遺書に従ってガウスやヤコビらに論文を送ったが、ガロアの理論は当時の水準を遙かに超えていただけでなく、説明不足だったために当初は理解されなかった。しかし、死後14年経って、論文を入手したリューヴィルがガロアの天才ぶりに気づき、ガロアの論文を著名な雑誌に発表したことで多くの数学者の目に止まることになった。死後65年経ってガロア全集が発表され、さらに死後100年以上経って物理学に応用された。現在、群論は科学のあらゆる分野の基盤となっており、日本では大学の数学科の学生が3年生になってから学習する。人類史上に残る天才ガロア・・・時代を先取りしすぎていたが故に、生存中に評価されることはなく悲劇の人物となった。

ガロアに関しては、エヴァリスト・ガロア(Wikipedia)他、いくつかのサイトを参考にさせてもらった。