第3章 闇の正体

崩壊の連鎖――精神医学との遭遇

再発――現代精神医学が鎮めた狂乱

2013年のサイト開設から5年。

平穏は、突如として破られた。

2018年のある時期、母親が「睡眠薬を飲んでも1日に2時間ほどしか眠れない」と訴え始めた。その数日後、二階の自室にいた自分の耳に、一階のキッチンから母親の絶叫が届いた。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」

特別なストレスの契機があったわけではないが、統合失調症が再発したのだった。

一定間隔で絶叫と気絶を繰り返す母親を見て、目の前の光景が理解できなかった。

「これは一体何なのだ?」
「病気?統合失調症?」
「これが病気だとして、
現代医学の手に負えるのか?」

そんなことを考えていたように思う。

自力で動けなくなった母親を、自分と父親で抱え上げ、車へと押し込んだ。ちょうど仕事から帰った妹と共に、かかりつけの精神病院へ向かった。

病院に到着すると、すぐさま鉄格子付きの保護室へと運び込まれた。鎮静剤が投与され、そのまま強制入院となった。

母親は常々、「一度道ができているから、再発した時は酷いことになる」と口にしていた。その言葉通りの惨状を目の当たりにし、自分も父親も妹も、「もう母親が自宅に戻れる日は来ないのではないか」と、最悪のシナリオを覚悟していた。

しかし翌日、見舞いに行った父親から、母親がすでに正気に戻っていたことを伝えられた。

発狂は、現代精神医学の薬理学的介入によって、わずか一日で鎮圧された。

誰もいない家で、世界が歪ゆがんだ日

母親の入院から数日後、父親は見舞いへ、妹は仕事へと向かった。

普段、家には常に母親がいた。一軒家に自分一人という環境は、この数年で記憶にないほど珍しい状況だった。

自室でいつものように過ごしていたその時、突如として世界が変容した。

「あれ?誰もいないはずなのに、扉が揺れている?」

いや、揺れているのは扉ではなく、自分の体。

急に、「死んで楽になりたい」と思えるほどの恐ろしい不安に襲われ、体の震えが止まらなくなった。

自分は即座に悟った。母親の凄絶な再発を目の当たりにし、自分の精神もまた崩壊したのだと。

「これはマジでやばい」

人生で初めて経験する「自己の崩壊」。

いい大人が、半泣きになりながら父親に「早く帰ってきて」と電話した。

その後、自分も母親と同じ精神病院へ通うことになった。小学生の時に自分に声をかけてくれた院長の娘が、今や病院を引き継ぎ、自分の主治医となった。

精神科においては、医師と患者の相性が治療の成否に大きく影響する。男性医師も含め、3人の医師の診察を受けたが、女性院長との対話は、自分に安らぎを与えてくれた。

そして自分は、それまで「単なる気休め」だと侮あなどっていた抗不安薬の驚異的な威力を体感することになる。

薬を服用した瞬間、不安が嘘のように霧散した。 メンタルが崩壊した時、気合いや根性で乗り越えようとするのは、到底無理がある。

「不安」が一錠の化学物質によって制御されるという事実から、人間の「感情」も含めた生命活動が、結局は化学的な現象の集積であること、医学・薬学が化学・生物学の土台の上に成立していることを身をもって実感することができた。

不安は、脳の扁桃体を中心とする神経回路が過剰に興奮した状態と考えられる。抗不安薬のうちベンゾジアゼピン系薬は、抑制性神経伝達物質 GABA (γ-アミノ酪酸)の作用を強め、神経細胞内への塩化物イオン Cl−\mathrm{Cl^-} の流入を促すことで神経を興奮しにくくする。その結果、脳が危険を過大評価して興奮するのを鎮め、不安を和らげる。

自分が当事者となって初めて、精神を病むことの辛さを真に理解した。

経験のない者は、自ら命を絶つ者を見て、「死ぬ気になれば何でもできる」と安易に言う。だが、それは傲慢ごうまんな無知に過ぎない。

精神を病むとは、「まともな思考そのものが不可能になる」という状態を指す。死の誘惑が、合理的な選択肢であるかのように脳を支配する。その意味で、精神疾患は、多くの肉体的な病よりも、生存に対する深刻な脅威になり得る。最近は、「実は最も多くの人の命を救っているのは精神科の医師ではないか」とすら感じるようになった。

母親が入院した翌日には、父親と妹は事もなげに笑って話をしていた。 同じ惨劇を目撃しながら、自分だけが、あまりに脆もろいメンタルを白日の下に晒したのだった。

この「脆弱性ぜいじゃくせい」こそが、後に自分の本質を解き明かすための重要なピースとなることを、当時の自分はまだ知る由もなかった。

社会との再接続――ファインダー越しに取り戻した実在感

大学院を卒業して以来、自分の生活は「生徒の指導」と「自宅でのサイト作成」という、極めて狭い半径の中に完結していた。

しかし、精神の崩壊を経て、自分は「心身の健康のために外の世界へ出る」という物理的な必然性を痛感するようになった。

最初、近所でのジョギングを試みたが、すぐに挫折した。 自分にとって、「目的のない移動」は苦行以外の何物でもなかった。単に体を動かすという動機だけでは、自分の脳を駆動させるには、あまりに情報量が乏しかった。

「自分の脳を活性化させ、心と体の健康に寄与し、美的感覚を昇華させ、かつインターネットとの親和性が高い活動はないものか」

その問いの先に浮かび上がった最適解。

「写真撮影がいいんじゃね?」

まず、3万円程度のデジタルカメラを購入すると、外出の意識が高まった。レンズ越しに世界を切り取るという作業は、自分の知覚を劇的に刺激した。

最初は近所の公園を巡る程度だったが、やがて活動範囲は、富山県内全域、さらに石川県へと広がり、自然の造形や伝統行事の刹那を追い求めるようになった。

一度足を踏み入れれば、中途半端な妥協は許されない。

「最高の一枚」を追求するためには、光学的限界を突破する高価な機材が不可欠だった。一基数十万円のカメラやレンズを次々に揃え、数kgに及ぶ機材を担ぎ、祭りの喧騒の中を5km、10kmと歩き回るようになった。

かつてジョギングでは1kmで飽和した自分の意識が、ファインダー越しに「獲物」を追うことで、数時間の肉体的負荷すら忘れさせた。写真撮影は、自分の偏執的なこだわりを正当化してくれる、極めて健全な「戦場」となった。

趣味として始まった活動は、いつの間にか個人の趣味の範疇はんちゅうを超えることもあった。

市の祭りのポスター、市の公式カレンダー、テレビの地域紹介番組、全国の祭りを網羅する書籍の中に、自分が切り取った一瞬が「記録」として刻まれていたりする。

パンデミック――分断する知性

2020年、世界は突如として新型コロナウイルスの脅威に直面した。

日本もまた、緊急事態宣言の発令という未曾有みぞうの事態に直面し、国民全員が「同一の現象」を自身や家族の生存に関わる切実な問題として考えざるを得ない状況に置かれた。

新型ワクチンが登場すると、議論の焦点は「接種か拒絶か」という二元論へと先鋭化していった。

SNS上では連日、賛成派と反対派が感情を剥むき出しにし、罵ののしり合いを演じていた。

自分は当初、それを「感情的になって知性の低い連中だな」と、冷ややかに眺めていた。

しかし、その騒乱の中に、本来高度な知性と理性を備えているはずの医師や専門家たちが深く関与し、最終的には裁判沙汰にまで発展している実態を知った時、自分は底知れぬ違和感を抱いた。

「医師の知性が低いはずがない」
「なぜ、冷静に医学的見地から議論をし合わないのだ?」

 

SNSに渦巻く醜悪な論争は、医学の領域に留まらず、右派と左派という政治的対立においても顕著である。それはもはや論争と呼べるものではなく、単なる人格否定と侮辱の応酬に堕だしている。

一般市民がSNSの匿名性に隠れて叫ぶだけならば、まだ「群衆心理」として説明がつく。しかし、国家の舵取りを担うべき政治家までもが、他者を侮辱し、知性の欠片も感じられない扇動的な言動を繰り返している。

この不可解な現象を、単なる「個人の知性の問題」として片付けることは不可能だった。

医師も、政治家も、一般市民も、同じように分断され、同じように他者を侮辱し、同じように自分の正しさだけを信じて疑わない。ならば、個人の知性が高いか低いかの問題ではない。

もっと根源的なところに、この世界の構造そのものに組み込まれた「欠陥」があるのではないか。

パンデミックは、自分にその疑念を突きつけたのだった。

迫り来る真理――最後のピースが揃う時

コロナ禍が明け、『受験の月』を開設してから10年の歳月が流れた。
この10年間、自分の背中を追う者は一人として現れなかった。

1億人以上もいる日本人。
自分のサイトよりも、より網羅的で、より美しいサイトを作る人間が一人や二人現れても、不思議ではないはず。

しかし、現実にはどうだったか。

高校数学、高校物理、高校化学の全範囲の網羅を目指し、教科書に準ずるクオリティを維持し、かつ継続的に更新し続ける。その「狂気」に近い熱量を維持できる人間は、この国には自分しかいなかった。

独走の果てに待っていたのは、奇妙なほどに静かな「孤独」であった。

同時に、「人生の二大疑問」を抱いてから、実に20年もの歳月が経過した。 この間、自分は公務員試験や指導者としての経験を通じ、様々な角度から考察を重ねてきたが、解決の糸口すら掴めていなかった。

歴史を振り返れば、ほとんどの科学者は、自らが抱いた根源的な疑問を解決することなく、目立った成果も出せずに一生を終える。

「ああ・・・自分もこのまま、この国がどれだけ腐っているかも、その理由も、何一つ解明できずに死んでいくのかな」

「そもそも、本当に真理なんてあるのかな」

身体的な衰えを感じ始める年齢に差し掛かり、自分の中に、そんな諦念が兆し始めていた。

しかし、それは大きな誤解であった。

自分が絶望の淵に立っていたこの20年間、地球文明は、一歩たりとも立ち止まることなく歩みを進めていた。

人類が積み重ねてきた知の進歩によって、パズルのピースは、自分の知らないところで確実に揃いつつあった。

自分が20年間、孤独に抱え続けてきた問い。

その問いに答えるための理論は、すでに世界のどこかで生まれ、成熟し、接続される時を待っていた。

あとは、最後の「ワンピース」をはめ込むだけで、巨大な絵が完成する――そんな段階にまで、運命は静かに、しかし確実に加速していた。

最後のワンピース――生き辛さに名前がついた日

2020年8月、自室のテレビをSonyの「BRAVIA」に買い換えた。決め手はAndroid TVが搭載されていること。これが、自分の生活習慣を根底から変えることになる。

コンプライアンスの締め付けで形骸化けいがいかしたテレビ放送を見る時間はほとんどなくなり、BRAVIAでYouTubeを流しながら、手元のパソコンで作業をするスタイルが定着した。自分にとって、BRAVIAはテレビというより「ネットの窓」を備えた巨大なモニターであった。

視聴ジャンルは多岐にわたる。教育、受験、医療、サイエンス、ゲーム実況、VTuber、写真・カメラ、バラエティ、登山・キャンプ、将棋、アイドル、音楽・アーティスト、ビジネス、スポーツ、ファミリー、犬・猫、etc。

2022年の秋、その時は唐突に訪れた。

その日も、自分はいつものように、YouTubeのおすすめ欄に流れてきた動画を何気なく再生した。

その動画では、ある「特異な特性」を持つ人間について解説されていた。

「えっ!?自分のことを言っている?」

動画の中で語られる人物像は、驚くほど自分そのものであった。

これまでバラバラに散らばっていた「自分」というパズルのピースが、凄まじい速度で組み合わさっていく。

 

コミュニケーション能力の欠落

こだわりの強さ

メンタルの弱さ

精神年齢の低さ

脳内で延々と繰り返される反芻はんすう思考

グレーゾーンを許さない白黒思考

論理的整合性への執着

 

自分が味わってきた「生き辛さ」の正体

 

Autism Spectrum Disorder (ASD)

 

解析と確信――伏線回収の始まり

以前から、コミュニケーションが苦手で、生き辛さを感じていたこともあり、「自分は精神疾患だか障害だか、何かしらには引っかかるだろう」という予感はあった。しかし、「学生時代ならともかく、今更判明したところで、自分の人生は何も変わらない」と勝手に思い込み、詳しく調べようとはしなかった。

ただ、さすがに今回は、調べずにはいられなかった。インターネットで検索し、本屋で数冊の関連書籍を立ち読みした。すると、自分の人生を説明するための概念が、次々と目の前に現れ始めた。

「発達障害」「神経発達症」「自閉スペクトラム症」「ASD」

これらについての解説動画や解説サイトはすでに存在するが、ASDの表面上の特徴が羅列されているだけのものが多く、「障害の本質」そのものにまでは触れられていない。

発達障害の当事者やその保護者であったとしても、「障害の本質」まで理解している人は、おそらくかなり少ない。ましてや、一般の読者の理解度はゼロに等しいだろう。


自分は、10年以上の指導者経験と学習サイト運営経験から、物事をわかりやすく伝えることには絶対の自信がある。

単にASDの表面上の特徴が羅列されているのを見ただけでは、所詮は「他人事ひとごとの知識」に留まる。生々しい具体例を知ってはじめて、実態を理解することが可能になる。

そのために、わざわざ長ったらしく第1章と第2章で自分の半生を語ったのである。すでに読者は、この「自分語り」を通じて、生々しい具体例を目撃している。

前章までに張り巡らせた膨大な伏線は、すべてここからの「回収」のために存在している。

以下、ほぼ無知の状態からでも「障害の本質」まで辿り着けるよう、当事者としての「経験」や「体感」を交え、系統的にASDについて一般向けの解説をする。

発達障害の地図――分類と併発の構造

発達障害:生まれつきの脳機能の特性に関わる状態の総称。

日本では、特にASD、ADHD、LDなどを指して、行政・教育・日常場面で広く用いられている。

一方、現在の医学的な診断分類では、DSM-5-TRなどで「神経発達症」という分類が用いられている。日本で一般にいう「発達障害」と完全に同じ範囲ではなく、ASD、ADHD、限局性学習症(SLD)だけでなく、知的発達症(知的障害)、コミュニケーション症、発達性協調運動症(DCD)、チック症なども含まれる。

特に知的障害は、日本では発達障害とは別の障害区分として扱われることが多い一方、医学的には神経発達症群の一つに位置づけられている。

発達障害の主な分類

分類主な特徴具体的な特性・症状
自閉スペクトラム症
(ASD)
社会的コミュニケーションの困難、限定された興味や反復的な行動対人関係やコミュニケーションの苦手さ、特定の物事への強いこだわり、変化への抵抗、感覚過敏や感覚鈍麻など。
注意欠如・多動症
(ADHD)
不注意、多動性、衝動性集中を持続することの難しさ、ケアレスミス、落ち着きのなさ、衝動的な行動など。
限局性学習症
(SLD)
特定の学習スキルの習得・使用の困難読字、書字、計算など、特定の学習領域に持続的で著しい困難がみられる。日本の教育・行政では「学習障害(LD)」という用語が広く用いられる。

※ ASDは、2013年のDSM-5 (米国精神医学会の診断基準)において、従来は自閉性障害やアスペルガー障害などとして区別されていた状態を、一つにまとめた診断概念である。

発達障害の存在割合

発達障害の存在割合は、国や診断基準、調査対象などによって大きく異なるが、少なくとも決して珍しいものではない。

学校現場における支援ニーズや、成人の自覚症状まで含めた場合には、10%を超えるとする推計もある。統計上は男子のほうが女子より2~4倍多く診断される傾向があるが、実際には女子の特性が見過ごされやすい可能性が指摘されている。

今にして振り返ると、自分の小中高時代にも、言動が異質で「あいつも発達障害だったんだろうな」と思われる生徒が少なくとも5人は思い浮かぶが、全員男子である。

一方、女子は周囲に合わせて特性を隠す「擬態ぎたい(カモフラージュ)」が起こりやすいとされ、単に「大人しい女子」との区別もつきにくい。そのため、実際に発達障害の女子生徒がいたとしても、周囲が気付くことは難しかったであろうことは容易に想像できる。

近年は、認知度の向上、診断基準の変化、さらに社会環境の変化などにより、統計上の診断数は上昇し続けている。

併発の構造

ASD、ADHD、知的障害は、いずれも神経発達に関係する状態であり、一部の遺伝的・神経生物学的要因を共有している。そのため、互いに独立したものとは限らず、複数の特性・障害が同時に存在することも多い。

数値については、統計や研究によってかなり幅があるので参考程度になるが、少なくとも併発することは珍しくない。

組み合わせ 併発率(推定) 補足・特徴
ASD + 知的障害 30% 〜 50% ASD児の約3人に1人がIQ70未満を伴うとされる。
ADHD + 知的障害 30% 〜 40% 知的障害が重いほど、ADHD症状との切り分けが難しくなる。
ASD + ADHD 50% 〜 70% 知的能力とは別に、発達障害同士の重なりは非常に多い。
ASD + ADHD + 知的障害 10% 〜 20% 3つが重なるケースもあり、多方面で手厚い支援を要する。

ASDの表面的特徴――「生き辛さ」として現れるもの

「自閉症」とだけ聞くと、クラスに1人いたような、誰とも関わろうとしなかったタイプの人を思い浮かべるかもしれない。しかし、ASD特性は、単に「コミュニケーションが苦手」というだけではない。

以下、ASDにみられやすい特徴を整理する。

ASDにみられやすい特徴

  • 相手の気持ち、表情、声の調子、場の空気、文脈、暗黙のルールを読み取ることに負担を感じる。
  • 対人関係や集団の中で距離感の調整が難しく、「マイペース」「率直すぎる」「一方的」などと見られやすい。
  • 言葉を字義通りに受け取りやすく、冗談、比喩ひゆ、婉曲えんきょく表現、社交辞令が伝わりにくい。
  • 興味のある話題では非常に詳しく話す一方で、雑談や関心の薄い話題には反応しにくい。
  • 声の調子、表情、視線の合わせ方、話し方などが独特に見える。
  • 予定変更や急な出来事、やり方の変更に強い不安やストレスを感じる。
  • 慣れた手順や自分なりのやり方、ルールに強くこだわる。
  • 興味関心の偏りが強く、特定の分野や対象に深く集中する。
  • 曖昧さや矛盾、不公平、場当たり的な基準変更に強い不快感や抵抗を示す。
  • 一貫性、正確さ、納得感を重視し、「なぜそうするのか」が分からないと動かない。
  • 物事を白か黒かという二分法で捉えやすく、気になる出来事や納得できないことを繰り返し考え続ける。
  • 細部の違和感や規則性によく気づき、観察力、集中力、論理的思考、独自の視点が強みとして現れる。

身体面に現れやすい特徴

  • 音、光、匂い、触感、温度、人混みなどの感覚刺激に、強い苦痛や疲労を感じる。
  • 服のタグや素材を極端に嫌う。
  • 偏食があり、食感、匂い、見た目、温度で食べられる物が限られる。
  • 緊張や不安が高まると、体を揺らす、手を動かす、同じ言葉を繰り返すなどの反応がみられる。
  • 不器用さや、協調運動の苦手さがみられる。
  • 姿勢保持が苦手で、猫背ぎみになったり、立ち姿や座り姿が崩れやすかったりする。
  • 歩き方や体の使い方に独特さがみられる。
  • 感覚の過敏さ、または鈍感さが、身体的苦痛や強い疲れとして現れる。
  • 睡眠リズムが乱れやすく、寝つきの悪さ、浅い眠り、起床困難などがみられる。
  • 便秘や下痢などの消化器トラブルを抱える。

 

こうして羅列されると、改めて自分がASDであることを実感する。

「ほぼ全部当てはまるやん」

偏食――感覚過敏という名の防衛本能

ASD特性を理解していく中で、自分にとって最も衝撃的だったのは、幼少期から今日に至るまで自分を苦しめ続けてきた「偏食」の正体であった。

自分は長年、幼稚園の給食で出された「たらこスパゲティー」のトラウマによる、後天的な拒絶だと思い込んでいたが、事実は違った。それは、生まれ持った脳の神経回路が引き起こす「感覚過敏」という特性の表出に過ぎなかったのである。

原理の理解を伴わない行動は、時に取り返しのつかない事態を招く。早まって幼稚園を焼き討ちするという暴挙に出なかったのは、正解だった。

思い返せば、自分の嗅覚もまた、異質な鋭さを備えていた。食事の前に匂いを嗅ぐ癖があり、親からは「犬のようでみっともない」と再三叱責されてきた。しかし自分にとって、匂いを嗅ぐことは「分析」そのものだった。匂いを嗅げば、口にする前に、その味をほぼ正確に予測することができた。それは生存のための、無意識の防衛本能だったのである。

ASDには、外部からの刺激を過剰に受け取る「感覚過敏」と、逆に刺激を感じにくい「感覚鈍麻」がみられることがある。そして、これらはしばしば一人の人間の中に共存する。対極にある状態が同居しているという事実は、定型発達の人々には理解し難いかもしれない。

これは、ある特定の状況では感覚過敏で、また別の状況では感覚鈍麻という形で表面に現れる。自分の場合で言えば、苦味には敏感で好き嫌いが多くなる一方、辛味には鈍感であるため、辛い食べ物を好む。

このように、能力や感覚の凸凹でこぼこが激しいことこそが、生活上の大きな困難を生み出すのである。

ただし、ASD特性は「絶対悪」とは言い切れない。

ある日、家族が先に食べ始めていたカレーを、自分も食べようとした瞬間のことだ。

自分は、ほんの一瞬、不快な匂いを感じた。 入念に再確認したものの、カレーの匂いに紛れて、判別は困難を極めた。しかし、念のために鍋に残っていたカレーの匂いを直接確認した瞬間、自分はそれが完全に腐敗していることを確信した。

家族の誰一人として気付かなかった「死の予兆」を、自分の嗅覚だけが検知したのである。こうした経験は、これまでに何度かあった。

また、自分はアルコールやタバコの匂いを生理的に受け付けない。その結果、これまでの人生で一度も飲酒や喫煙を経験したことがない。当然ながら、飲酒運転などの社会的リスクを犯す可能性も皆無である。

数学と国語――論理の楽園と文脈の地獄

ASDである自らの内面に通底する、こだわりの強さ、パターン認知力、論理的思考、集中力、言葉を字義通りに受け取る実直さ。

「あれ?これって・・・」

受験数学

中学生の時に感じた直感は、間違いではなかった。

「自分って、本当に生まれながらに理系だったんだな」

明確な定義に基づき、論証が一点の曇りもなく積み上げられる数学の世界。そこは、曖昧あいまいな「空気感」や「文脈」を読み取らなければ生存が許されない現実世界とは対照的な、自分にとって唯一の安息地であった。

一方で、学生時代から抱き続けてきた、国語への奇妙な嫌悪感の正体も、ようやく白日の下に晒された。

自分は、センター国語の「評論」は、決して嫌いではなかった。そこには筆者の論理的な主張があり、構造的な読解が可能だったからである。

しかし、「小説」だけはどうしても受け入れられなかった。

真偽の程は定かではないが、文学的象徴として有名な逸話がある。

「I love you を訳せ」
夏目漱石 「月が綺麗ですね」

「これは無理やわ」

これは、「比喩ひゆ」「暗喩あんゆ」「婉曲えんきょく」「皮肉」「擬人法」といった修辞法を理解しているかどうか、あるいは「国語は筆者の気持ちを勝手に想像するものではなく、本文の根拠から論理的に読み取る試験である」といった解法レベルの話ではない。根本的に自分の脳がその思考様式を拒絶し、生理的な嫌悪感すら覚える。

「これが受け入れられる文系は頭おかしいやろ」

論理と事実を愛する自分の知性にとって、文学的な「含み」という名の霧は、意味を豊かにする余白ではなく、ただ思考を阻害し、神経を逆撫でするノイズに過ぎなかった。

身体に刻まれた特性――ASDと体調不良の連鎖

これまでに自分が病院で下されてきた、一見無関係な診断の数々。

  • 脱水症状
  • 痔
  • 逆流性食道炎
  • アキレス腱痛
  • 心臓神経症

これらは単なる不運や不摂生の産物ではなく、ASD特性を起点とした因果関係の連鎖であったと推測される。

  • 内受容感覚の鈍さ・過集中 → 喉の渇きに気付かない → 脱水症状
  • 味覚の感覚過敏・感覚鈍麻 → 偏食 → 便秘 → 痔
  • 姿勢保持の苦手さ → 猫背 → 腹圧がかかる → 逆流性食道炎
  • 協調運動の苦手さ → 扁平足 → 衝撃吸収力低下 → 外反母趾やアキレス腱痛
  • 不安の強さや自律神経の乱れ → 心臓神経症

大腸内視鏡検査――死の芽が摘まれた日

市の健康診断を受けたとき、便潜血反応が出た。自分は痔持ちだったので、反応が出来ること自体は、あらかじめ想定していた。

「どうせ痔のせいだろう」と思いつつも、念のために大腸内視鏡検査を受けてみることにした。

大腸内視鏡検査は1日がかりになるため、気軽に受けられる検査ではない。

午前中から2ℓの薬液を約1時間かけて飲み、その後、数時間かけて、ほぼ透明な液しか出なくなるまで7回程度排便してから検査する。さらに、鎮静剤を使えばほぼ苦痛を感じなくなるが、検査後に目を覚まして落ち着くまでに1時間ほどかかる。

検査中、鎮静剤によって朦朧もうろうとした意識の中で、医師の一つの呟つぶやきが記憶に残っている。

「あ、これは切除しないと駄目だ」

大腸内視鏡検査でポリープが見つかり、その場で切除した場合は、出血や穿孔せんこうなどの合併症がないかを確認するため、原則として1泊入院となる。

後日、切除したポリープの組織検査の結果を聞きに行くと、大腸癌へ進行する直前の状態、いわゆる「前癌病変」であった。

大腸癌は、40代以降にリスクが高まり始める。早期発見できれば完治しやすい一方で、死亡数は多く、男性は肺がんに次ぐ2位、女性は1位である。大腸内視鏡検査では、癌や前癌病変であるポリープを直接観察し、病変によってはその場で切除することもできる。

仮に諸君が痔持ちで、便潜血反応が出たとして、「一応、大腸内視鏡検査をしておこうかな」と考えるだろうか。

痔持ちにもかかわらず、便潜血反応が出た程度で検査を決断できたのは、未知の検査への純粋な知的好奇心、不安の強さから来る悲観主義、そして好きな時に休める仕事形態が揃っていたからだった。

ASD特性によって検査を決断して癌の芽を摘み取ることができたのか、そもそもASD特性による偏食そのものがポリープのトリガーとなっていたのか、あるいはその両方なのか、因果はわからない。

心臓神経症――不安が身体化する時

ある日、「胸が苦しい」と感じ、市民病院の総合診療科に行って心電図をとった。

特に異常は見つからず、心臓神経症と診断された。

心臓神経症とは、心臓そのものに明らかな器質的異常がないにもかかわらず、ストレスや不安、自律神経の乱れなどによって、動悸や胸の痛み、息苦しさなどが現れる状態である。

不安という精神の揺らぎが、心臓という身体の中枢にまで影響を及ぼしていたのである。

母親と祖母に見えた遺伝の影

以前から自分は、母親と自分の「身体の悪い部分」が酷似していると感じていた。

精神疾患、味覚過敏、逆流性食道炎、扁平足、外反母趾、車椅子生活を余儀なくされた脚の悪さ――。

また、母親には「空気が読めていない」と感じる言動も多く、統合失調症だけでは説明しきれないと感じていた。

さらに遡さかのぼれば、すでに他界した祖母もまた、隣人との警察沙汰や、家族の物品を独断で廃棄するといった、異常な行動を繰り返していた。そして、酷い外反母趾だった。

発達障害は、遺伝的要因がかなり大きいという。

母親や祖母もASDだったと考えると、様々な事象の辻褄つじつまが合うように思えた。

ASDの本質をどう捉えるか――神経発達・認知・環境からみる多層的理解

ASDの表面的な特徴を理解するにつれ、自分の関心は、さらなる深層へと向かっていった。

◇ 本質の探究 ◇
そもそもASDとは何か

「空気が読めない」「こだわりが強い」「コミュニケーションが苦手」といった表面的な特徴を並べるだけでは、ASDの本質には到達できない。

なぜ、そのような特徴が現れるのか。

その背景では、脳はどのように情報を受け取り、整理し、世界を理解しているのか。

ASDは単なる「社会性の障害」ではなく、神経発達、知覚、注意、予測、記憶、実行機能、社会認知などにまたがる、多層的な情報処理特性として捉える必要がある。

1. 発達障害の本質:脳機能の多様性と偏り

発達障害(神経発達症)は、発達早期からみられる脳機能の特性によって、認知、注意、コミュニケーション、行動などに独特の偏りが生じる状態である。

  • 能力と情報処理の偏り:発達障害は単純な「能力の欠如」ではなく、能力間に大きなばらつきが生じたり、情報の受け取り方、整理の仕方、出力方法に独特の特徴がみられる。
  • 環境との相互作用:同じ特性であっても、環境によって困難にも強みにもなり得る。学校では問題となる特性が、研究や専門職では高い能力として発揮される場合もある。
  • 努力不足ではない:発達障害による困難は、本人の努力不足やしつけの問題によって生じるものではない。
  • 個別プロフィールの重視:重要なのは診断名そのものではなく、どのような認知特性をもち、どの環境で困難が生じ、どの環境では能力を発揮できるのかを把握することである。

2. ASDは「一つの原因」でできているわけではない

ASDは、単一の原因や一つの脳部位だけで説明できるものではない。

  • 複雑な遺伝的背景:ASDには、数百のリスク遺伝子に加え、個々の効果が小さい多数の遺伝変異が関与すると考えられており、単一の「ASD遺伝子」が存在するわけではない。
  • 多層的な神経発達:遺伝的背景などが、胎児期からの神経回路形成、シナプス機能、遺伝子発現、神経伝達系などに影響し、感覚処理、注意、実行機能、社会認知など複数の機能に違いを生じさせる。
  • 身体的特徴が現れる理由:ASDに関係する遺伝子や発生経路の一部は、脳だけではなく、骨格、顔貌、筋肉、消化器など身体全体の形成にも関与する。
  • 環境と個人差:教育環境、感覚環境、対人環境などによって、困難の程度や強みの発揮され方は変化する。さらに、知的能力、言語能力、感覚特性、注意機能、興味、併存するADHDなどによって、困難の出方、強みの現れ方、必要な支援の形には極めて大きな個人差がある。
  • 併存症と二次障害:ASDは、ADHD、知的障害、不安、抑うつ、睡眠障害、てんかんなどを併存することがあり、日常生活上の困難のすべてがASDそのものから生じているとは限らない。 特に不安や抑うつなどは支援・治療可能なので、ASD特性と分けて考えることが重要である。

3. ASDの遺伝率と家族内リスク

ASDは、遺伝的要因の影響が非常に大きい神経発達症である。

  • 遺伝率は約80%:大規模研究では、ASDの遺伝率は約80%と推定されている。これは、集団内におけるASDになりやすさの個人差の多くを遺伝的差異が説明するという意味である。
  • 遺伝率=親から子への遺伝確率ではない:「遺伝率80%」は、親がASDなら子供も80%の確率でASDになるという意味ではない。ASDには多数の遺伝的要因が複雑に関与しており、個人の発症確率とは区別する必要がある。
  • ADHDの親から子へのリスク:親がADHDの場合、子供もADHDとなる割合は研究や親子の性別などによって異なるが、おおむね20~50%程度とされる。
  • ASDも家族内で集積する:ASDでは親から子への絶対的な発症確率を一つの数字で示すことは難しいが、親がASDの場合、子供のASDリスクは一般集団より大幅に高くなる。
  • ASDと統合失調症の遺伝的重なり:ASDと統合失調症は別の疾患だが、脳の発達やシナプス機能などに関わる遺伝的リスクの一部を共有している。ASDは主に幼少期からみられる発達特性として現れるのに対し、統合失調症は主に思春期以降に、妄想や幻覚、思考・情報処理の乱れなどとして発症する。

4. ASDの認知構造:世界のどこに重みを置くのか

ASDはしばしば対人関係の問題として説明されるが、その背景には、より広い意味での非定型的な情報処理が存在すると考えられている。

  • 文脈より細部を重視する傾向:多くの人が表情、空気、暗黙の了解から全体像を推測するのに対し、ASDでは、個別の事実、細部、言葉の厳密な意味、規則性、論理的一貫性へ注意が向きやすい傾向がみられる。
  • ボトムアップ的な理解:曖昧あいまいな全体像を先に受け入れるより、個々の要素を一つずつ確認し、矛盾なくつながったときに全体像を構築する認知スタイルが強く現れる。
  • 矛盾や不整合への敏感さ:「細かすぎる」「理屈っぽい」と見られても、本人にとっては、理解していないものを理解したことにせず、矛盾を放置しないという認知過程である。
  • 強みにも弱みにもなる:詳細志向や正確性の追求は、日常生活では認知コストとなる一方、精密な分析や専門的探究では大きな強みとなる。

5. 日常生活に現れる多角的な特性

ASDの情報処理特性は、コミュニケーション、柔軟性、感覚、実行機能などにさまざまな形で現れる。

  • コミュニケーションの違い:比喩、皮肉、婉曲えんきょく表現、社交辞令など、文脈から意味を補う必要がある表現に高い認知コストを要する。一方で、情報交換や議論など、目的が明確な会話を好む。
  • 二重共感問題:ASDのコミュニケーション問題は、ASD側だけの「共感不足」ではなく、ASD者と非ASD者の認知・コミュニケーション様式の違いによって、双方がお互いを理解しにくくなる現象としても捉えられる。
  • 予測可能性とルーチン:予定変更や不確実な状況に強いストレスを感じることがあり、ルーチンや決まった手順は、世界を予測可能にして認知的・情動的負荷を減らす役割をもつ。
  • 感覚処理と実行機能:視覚、聴覚、触覚などへの過敏・鈍麻に加え、認知的柔軟性、計画、ワーキングメモリ、注意の切り替えなどに偏りがみられる場合があり、日常生活上の困難につながる。
  • カモフラージュと見逃されるASD:社会的行動を学習してASD特性を目立たなくする「カモフラージュ(擬態;マスキング)」があり、外見上は適応していても内側では大きな認知・精神的負荷を抱えている場合がある。 女性では診断の見逃しや遅れとの関連が特に指摘されているが、男性にもみられる。

6. 学問的才能との親和性と評価の乖離

知的能力が十分に保たれている場合、ASDの一部の認知特性は、特定の学問や専門分野で大きな強みとなりうる。

  • 詳細志向とシステム化:細かな違いや規則性に気づき、対象を要素へ分解して構造や因果関係を見つける能力は、数学、物理学、工学、プログラミングなどで強みとなる。
  • STEM分野への偏り:ASDは、一般集団よりSTEM(科学・技術・工学・数学)を選ぶ割合が高い。
  • 限定的関心の専門化:一つの対象を長期間にわたって深く掘り下げる特性は、高度な専門知識や技術の獲得につながる。
  • 理数系に限定されない:こうした能力は、歴史、言語学、法律、音楽理論、芸術、写真など、構造や規則性を深く扱うあらゆる分野に向かい得る。
  • 評価形式とのミスマッチ:深い理解や高い専門性をもっていても、処理速度、ワーキングメモリ、注意、時間管理、併存するADHDなどの影響で、時間制限のある試験では能力を十分に発揮できない場合も多い。
  • 能力と就労の乖離:STEMへの高い関心や能力をもっていても、対人コミュニケーション、採用面接、職場環境への適応などが障壁となり、STEM職への就職につながるとは限らない。

7. 社会的・道徳的特性:公平性と一貫性への志向

ASDは、正義や公平性を重視し、欺瞞ぎまんや不整合に違和感を抱く傾向が指摘されるが、ASD=正直、ASD=善良、ASD=道徳的と一般化することはできない。

  • 公平性と一貫性の重視:人や立場によって基準を変えるより、同じ条件には同じルールを適用することを重視し、矛盾した基準に強い違和感を抱く。
  • 権威や慣習より原則:「誰が言ったか」「普通はどうするか」よりも、その主張やルールが論理的・倫理的に一貫しているかを重視する。
  • 建前や駆け引きへの違和感:社交辞令、忖度そんたく、婉曲えんきょく表現など、言葉の表面と本当の意味が異なるコミュニケーションに認知的負荷を感じる。

8. 支援の在り方:矯正から最適化へ

ASD支援の目的は、本人を「普通の人」に作り替えることではない。

重要なのは、困難を減らしながら、本人の能力を最大限発揮できる状態を作ることである。

  • 明確化と予測可能性:「察して」ではなく、目的、理由、手順、期限、ルールなどを具体的に言語化し、予定変更もできるだけ事前に伝える。
  • 環境調整:照明、騒音、匂い、座席などの感覚環境を調整し、不必要な認知負荷を減らす。
  • 強みの活用:限定的な興味や深掘りを単に抑圧・矯正するのではなく、学問、研究、技術、芸術、職業などへ接続する。
  • スキル獲得と自己理解の両立:環境側の調整だけでなく、本人も感情調整、コミュニケーション、時間管理、認知の切り替えなどを学び、「どこを活かし、どこを補い、どの場面では環境調整を求めるのか」を自覚・理解していく必要がある。

9. 一部の場面でみられる問題行動とその背景

ASDそのものが、迷惑行為や反社会的行動を生み出すわけではない。

一方で、一部の認知特性が強いストレスや集団心理と結びついたとき、対人トラブルを増幅する可能性がある。

  • 限定的関心と注意の集中:特定の目的に注意が極端に集中すると、周囲の状況や他者の立場を同時に処理する余裕が低下する。
  • 認知的柔軟性と感情調整:一つの考えから切り替えにくい状態や、不満を繰り返し反芻はんすうする状態が、怒りや固執を強める。
  • 予測外への脆弱性:予定変更、遅延、中止、他者の介入などが大きなストレスとなり、パニックや強い怒りとして現れる。
  • 集団心理との相互作用:競争、同調圧力、責任の分散などが加わることで問題行動が増幅する場合がある。
  • 犯罪の加害・被害リスク:現在の大規模研究では、ASD特性自体が加害リスクを高める根拠は乏しく、むしろいじめ、虐待、性的被害、暴力などの被害を受けるリスクが高い。一方ADHDでは、被害リスクだけでなく、加害リスクも平均的に高い。ただし、そのリスクには衝動性だけでなく、素行症、薬物などの物質使用、反社会的特性などの併存要因が大きく関与する。

 


現実には、ASDの就労や職場定着には大きな困難があり、就職できたとしても、離職や転職を繰り返すケースは少なくない。

この厳しい現実の背景には、本人の資質だけでなく、業務内容とのミスマッチ、曖昧な指示、感覚環境、人間関係、評価方法、支援体制の不備など、職場環境側の要因も大きく関与している。

したがって、ASDを理解するうえで必要なのは、その特性を「個性」として美化することでも、「欠陥」として否定することでもない。

重要なのは、本人の自己理解と周囲の客観的理解をすり合わせ、不必要な摩擦や負荷を削ぎ落とすこと。そして、得意とする領域で能力を最大限に発揮できる環境を構築することである。

一時的な「就職」の成立で終わらせるのではなく、安定した職場定着と、その先にある長期的・持続的なキャリア形成の実現こそが、本来目指すべき姿である。

IQとは何か――知能を測る相対評価

自分は、神経発達症の1つである知的障害についても調べ始めた。

そこで初めて、知的障害の判断においてIQが重要な指標として用いられることを知った。同時に、自分が最も恐れていた「相対評価」が、知能そのものにも深く関わっていることを知ることになった。

1. IQの基本的な考え方

IQ (知能指数 ; Intelligence Quotient):同年齢集団における知的機能の位置を統計的に示した指標であり、理解力、推理力、言語力、記憶力、処理速度など、知的機能の“一部”を心理検査によって数値化したもの。

創造性、感情の豊かさ、思いやり、芸術性、意欲、実生活での適応力などは測れないので、IQは個人の価値や人間性の優劣を表す数値ではない。

2. IQの分布と割合

現代のIQ検査では、多くの場合、同年齢集団の得点が正規分布(ベルカーブ)に近い形をとるように標準化されている。

平均を100とし、標準偏差を15として数値化する検査が多い。

区分 IQの範囲 割合 特徴
非常に高い 130以上 約2.2% 高IQ層。突出した理解力や論理的思考力を持つ。
やや高い 115〜129 約13.6% 理解が早く、学習や複雑な課題の処理が得意。
平均 85〜114 約68.2% 平均的な範囲。
境界知能 70〜84 約13.6% 知的障害ではないが、平均的な理解力や処理力がなく、生き辛さが生じる。
知的障害 70未満 約2.2% 理解や判断に時間がかかる。手厚い個別支援が必要。

3. 主要な知能検査

現代の知能検査では、単一の数値だけでなく、能力の凹凸 (ディスクレパンシー)を分析することが、重要視される。

なお、インターネット上の簡易的なIQテストは、正式な知能検査とは異なるため、結果はあくまで娯楽や目安程度にとどめた方がよい。

① WISCウィスク–Vファイブ

  • 対象: 5歳0ヶ月~16歳11ヶ月。
  • 特徴: 5つの指標(言語理解、視角空間、流動性推理、ワーキングメモリ、処理速度)で構成される。医療機関や教育機関などで支援の手がかりを得るために用いられる。
指標名(略称)評価のポイント(測定内容と具体的な能力)
言語理解
(VCI)
言葉を扱う力:語彙の豊富さ、言葉の概念の理解、一般知識、自分の考えを言葉で論理的に説明する力などに関わる。
視空間
(VSI)
図形を捉える力:視覚情報を正確に把握し、頭の中で組み立てる力。全体と細部の関係、空間構造の理解に関わる。
流動性推理
(FRI)
論理的な推論力:初見の情報から法則性を見つけ出し、問題を解決する力。図形の変化パターンや数学的概念の応用などに関わる「地頭」の良さに近い側面。
ワーキングメモリー
(WMI)
脳内のメモ帳の広さ:情報を一時的に保持し、頭の中で操作する力。聞き漏らしの少なさ、集中力、マルチタスク時の情報保持に関わる。
処理速度
(PSI)
事務処理のスピード:視角情報を素早く、正確に処理する力。書き取りの速さや、照合の正確性、作業のテンポに関わる。
——
全検査IQ
(FSIQ)
総合的な知的能力:上記の5つの指標を統合して算出される、全体的な知的能力の指標。

「群指数の差」の重要性:全検査IQが100であっても、言語理解が120で、処理速度が80というように群指数間の凸凹でこぼこが激しい場合、生活上の困難が生じうる。群指数間に15以上の差がある場合、能力の偏りを検討する1つの目安となる。ただし、数値だけで発達障害を診断することはできず、発達歴、生活上の困難、行動特性、各指数の差の出現頻度などを含めて総合的に評価される。

② WAISウェイス–IVフォー

  • 対象: 16歳0ヶ月~90歳11ヶ月。
  • 特徴: 成人の就労支援や自己理解、診断の補助として用いられる。WISCの成人版。

③ 田中ビネー式知能検査V

  • 対象: 2歳~成人。
  • 特徴: 日本独自の改良が加えられた検査。精神年齢からIQを算出する側面があり、特に低年齢児の発達の遅れを捉える際に有効とされる。

知的障害――数値だけでは測れない生活上の困難

知的障害:理解する力、考える力、学ぶ力といった知的機能の発達が平均よりも緩やかであり、その結果として、日常生活及び社会生活において援助や配慮を必要とする状態。

原因は様々であり、染色体や遺伝子の変化、胎児期や周産期の脳への影響、出生後の病気や事故などが関係する。ただし、原因が特定できない場合も多い。

自治体により療育手帳が交付されることがある。障害の程度による区分があり、名称や判定基準は自治体によって異なる。

知的障害の診断条件(IQ以外に生活力も考慮)

① 知能指数(IQ)が低い

  • 一般的に IQが70前後より低い。人口の約2.2%。
  • 学習、理解、判断、問題解決などが、年齢相応に比べて難しい。

② 生活の力(適応行動)が弱い

  • 食事、着替え、会話、金銭管理、対人関係、社会的な行動など、年齢に応じた生活力が十分でない。
  • 周囲の支援や見守りが必要なことが多い。

③ 発達期からみられる

  • 発達期、おおむね18歳未満の時期から続いている。
  • 大人になってから脳の病気などで能力が低下した場合は、別の扱いになる。

知的障害の程度別の特徴と課題

軽度(IQ 約50〜70) 推定 約120万人

  • 会話や読み書きはでき、一般就労も可能。
  • 抽象的な判断やトラブル対応が苦手。
  • 人を信じやすく、悪意のある人に利用される危険がある。
  • 支援があれば自立できるが、職場での孤立や金銭・人間関係のトラブルに注意が必要。

中度(IQ 約35〜50) 推定 約20万〜30万人

  • 簡単な作業や会話はできる。
  • 複雑な状況理解や判断は苦手。
  • 意思を伝えるのに時間がかかり、誤解を受けやすい。
  • 福祉的就労で働けても、支援の切れ目や周囲の無理解で孤立しやすい。

重度(IQ 約20〜35) 推定 約8万〜10万人

  • 言葉での会話は限定的。
  • 食事・排泄・入浴など、多くの場面で介助が必要。
  • 周囲の表情や声に敏感で、不安が強く出ることがある。
  • 家族の高齢化や施設不足により、介護負担が重くなりやすい。

最重度(IQ 約20以下) 推定 約2万〜3万人

  • 言葉による意思疎通はほぼ困難。
  • 生活全般で全介助が必要。
  • 表情や体の動きが、わずかな意思表示になる。
  • 家族の24時間介護、医療・介護人材不足、将来への不安が大きな課題。

知的障害者の存在価値――相対評価の残酷な真理

初めて知る衝撃の真実――。

「知的障害って相対評価だったのか・・・」

この事実に基づき、自分は一つの「悍おぞましい真理」に到達した。

それは、知的障害と呼ばれる人々がこの社会構造の中で担わされている、あまりにも残酷な位置についてである。

もし、「社会の役に立たない」という理由で、IQ70未満の知的障害者をすべて排除したとしよう。

彼らに割かれていた社会的リソースは不要となり、残された集団の平均IQは上昇する。現在の基準で言えば、平均IQは110へと上昇するだろう。 しかし、その瞬間、これまで「境界知能」とされていたIQ70〜84の人々が、新たな社会における「知的障害者」へとスライドする。そして、次はその層が排除の対象となる。

こんな選別を繰り返した先に待っている結末は、一つしかない。

いつか、自分自身が排除される側になる

そう、自分自身が知的障害者にならないため、そして排除される側に回らないためには、IQ70未満の知的障害者達に存在していてもらわなければならない。かつての自分が「社会のお荷物」としか見なせなかった知的障害者達は、実は多くの人が「知的障害者」の側へ転落しないための、最後の防波堤だったのである。

「自分が今日まで超高学歴として生きてこられたのは、確率的に、生まれながらにして重い十字架を背負わされた知的障害者達が、社会の平均レベルを大幅に下げていてくれたおかげだったんだな」

もし仮に、現在の基準で平均IQ180の世界に自分が産まれていたなら――。 その世界では、自分は学校の授業に全くついていけず、他人の会話の内容も、機器の説明書も理解できない。「救いようのない知的障害者」として一生を終えることになっていたであろう。

かつての自分は、「人間は、知的障害者以外は皆平等な知能を持って生まれ、幼少期の教育次第で最終的な知能が決まる」という、根拠なき神話を信じていた。だが、それはただの甘い願望に過ぎなかった。 遺伝子によって身長も容姿も残酷なまでの差がつくのに、脳のスペックだけが均一であるはずがなかった。

生物が種としての存続を図るために選択した戦略、それが「多様性」である。 自分は、その美名の下に隠された真の残酷さを初めて理解した。自分が追い求めていた「本質的な公平」など、この自然界の摂理には、最初から組み込まれていなかった。

YouTubeに溢あふれる重度知的障害者の日常を捉えた動画は、まさに地獄と呼ぶにふさわしい。彼らは、しばしばASDやADHDを併発し、最悪の場合、自傷や破壊行動を繰り返す「強度行動障害」までも併発する。親の手にも負えず、施設に入れるしかなくなるが、受け入れ可能な施設も職員も限られており、悲惨な未来が待ち受けている。

当然ながら、一般的な就労への道は極めて限られる。就労継続支援B型事業所に通い、月額わずか2万円程度の工賃で作業に従事する人も少なくない。

それが、社会の平均を維持するために彼らが背負わされている「運命」の一端なのだと考えた時、自分は言葉を失った。

知的障害者は、社会の外側にいる存在ではない。彼らは、社会の最も低い場所に押し込められながら、相対評価という構造そのものを支えている。

知能の分布とは、ただの統計ではなく、生まれた瞬間から背負わされる運命の配列であり、その下端に置かれた人々の苦しみの上に、平均も、高知能も、高学歴も、社会的成功も成立しているのである。

その事実から目を逸らしたまま、個人の「努力」や「才能」や「自己責任」を語ることは、あまりにも欺瞞ぎまん的であった。

スペクトラムという思想――白黒では捉えられない人間

障害や自閉スペクトラム症(ASD)の本質を捉えるには、専門家が「スペクトラム(Spectrum)」という概念に託した本質的な意味を解き明かす必要がある。

 

🌈 スペクトラムの意味
―― 連続してつながる、虹のような広がり ――

 

「スペクトラム」の原義は光の帯(虹)であるが、転じて「連続性・グラデーション・多様な広がり」を意味する。

ASDの「スペクトラム」も、人間の発達特性が“白か黒か”という二項対立ではなく、連続的に分布しているというモデルに基づいている。

すなわち、多様性とグラデーションを前提とする視点であり、「定型発達」と「ASD」の間に明確な生物学的境界線が存在するわけではない。

ASDは、単純な「病気」ではなく、脳の神経発達の違いによって生じる、発達・感覚・思考・認知の特性を含む神経発達症である。

その特性は困難として現れることがある一方、人によっては、独自の視点、強い集中力、規則性を見抜く力、深く掘り下げる力などとして強みに転じることもある。

一人ひとりに異なる形で現れるスペクトラム上の特性を正しく理解し、困難を和らげながら、その人固有の強みが十分に発揮される環境を整えること。

その営みの先にこそ、多様性を単なる差異にとどめず、社会を支える力へと昇華させる可能性がある。

ASDの対人スタイル (ローナ・ウィングの4分類)

ASDは、対人関係における特性の現れ方についても一様ではない。

ASDは単純に「ある・ない」で二分できるものではなく、様々な特性が異なる組み合わせと強さで現れるスペクトラムである。対人スタイルについても固定された類型ではなく、年齢、経験、環境、相手との関係性などによって変化しながら現れる。

こうしたASDの多様な対人特性を理解する手がかりとして、公式な診断基準ではないものの、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが提唱したASDの4つの対人スタイルを以下に整理する。

ASDと非ASDの境界――認知特性の連続性と診断閾値

結局、すべての人間を「ASDか否か」で完全に二分することなど不可能である。

現代医学が提示する「スペクトラム(連続体)」という概念は、 誰しもが部分的にASD特性を保持しており、強弱を伴いながら連続的に分布していることを示している。

これは、生物学的にもそれほど不思議なことではない。

かつては絶対的だと思われていた「男」と「女」という性別でさえ、現代では中間的な身体的特徴を持つ人々の存在が広く知られるようになった。何十億人と存在する人類が持つ遺伝的多様性を考えれば、知能や神経発達、性格、感覚特性、社会認知といった人間の多くの形質が、完全な二分法ではなく連続的なグラデーションとして分布していると考えるのは極めて自然である。

以下は学術的な尺度ではなく、あくまでも自分の中の大まかなイメージにすぎないが、仮に、ASD特性の強さを0 ~ 100の数値で表すとしよう。

ボリュームゾーンは20〜30付近にあり、数値が上がるほど人数は減っていく。仮に70以上を便宜べんぎ上「ASD」として診断することにすれば、それは統計的に全体の数%に該当することになるが、70という地点に生物学的境界線が存在するわけではない。

当然、診断基準には達しないものの、ASDに関連する特徴を比較的強くもつ「境界ASD (境界知能を真似た自分の造語)」の人々も存在する。こうした診断閾値未満の特性については、研究上は「広義の自閉症表現型(Broad Autism Phenotype:BAP)」という概念も用いられている。


実際の診断で重視されるのは、知能検査などの数値そのものではなく、ASD特性が日常生活、学校生活、仕事、人間関係などにどの程度の困難を生じさせているかである。

知能検査や各種心理検査は認知特性を把握するための補助資料として用いられるが、それだけでASDと診断されるわけではない。可能であれば、本人への問診だけでなく、幼少期の発達歴を知る家族などからも聞き取りを行い、現在の行動特性や生活上の困難と合わせて総合的に判断する。

ASDの宿命――反転する善意

なぜ、自分が良かれと思ってやったことが、ことごとく裏目に出るのかもわかった。

問題の本質は、個人の特性そのものではなく、周囲との「相対的な乖離かいり」にある。

20〜30付近の平均的な特性を持つ定型発達者と、自分のようにかなり強い特性(80以上)を持つASDの人間とでは、世界に対する感覚も、最適解を導き出すアルゴリズムも、文字通り「真逆」になるのである。

例として、定型発達者の多くがリンゴが大好きな一方で、あるASDの人間はリンゴをこの世で最も忌むべき汚物だと感じているとしよう。

いま、テーブルの上に最高級のリンゴが1個置いてある。このとき、何が起こるだろうか。

ASDの人間
「他の人に手間をかけさせると申し訳ないから、自分が代わりに捨てておいてあげよう」 (ポイッと)
定型発達者A
「えっ、何やってんのコイツ(怒)」
定型発達者B
「頭おかしいんじゃね?」
定型発達者C
「近づかない方がいいよ」

こんなことが日常茶飯事。

ASDの人間の行動は、「自分が幸せになりたい」「人を幸せにしたい」「人の役に立ちたい」という想いが強ければ強いほど、その結果は無惨なものになる。

挨拶の本質――定型発達者の通信規格

高校生の頃から、自分は挨拶あいさつという行為を放棄し始めた。

無論、挨拶が社会常識であることは理解していた。しかし、どうしても「したくない」という強い拒絶感が勝った。挨拶をする「意味」が定義できず、どのような出力が正解なのかもわからなかった。

◇ 本質の探究 ◇
そもそも挨拶とは何か

この問いに答えることができるだろうか。

できないだろう。常識すぎて考えたこともないだろう。「挨拶しないお前は非常識だ」と言われ続けてきた自分は、その意味を考えざるを得なかった。

この謎も、「ASD特性」というフィルターを通すことで、ようやく論理的な解答を得ることができた。

定型発達者にとって、挨拶とは単なる言語情報の交換ではない。

それは、顔の微細な表情の変化、声のわずかな抑揚、視線、間、姿勢、空気感を通じて、お互いの「感情という非言語データ」をリアルタイムで同期させる、一種のテレパシー儀式である。

定型発達者どうしの自然な読み取り
定型発達者A
「おはよう~♪(今日は最高の気分だ!)」
定型発達者B
「おはよう~♪(おっ、Aさんめっちゃ気分良さそう)。昨日、何かいいことあったでしょ?」
定型発達者A
「そうなんだよ〜、実は〜」

挨拶というエントリーポイントを通過した瞬間、定型発達者の間では、バックグラウンドでの感情同期が完了しており、自然な会話のストリームが生成される。

一方、ASDの人間にとって、この処理は極めて負荷が高い。表情や声に感情を自然に乗せることも、相手の表情や声から感情を即座に読み取ることも、定型発達者ほど自動化されていない。

言葉を字義通りに受け取りやすいASDにとって、挨拶はしばしば、単なる「ひらがなの羅列」であり、意味を持たない「定型文」として処理される。

定型発達者A
「おはよう〜♪(今日は最高の気分だ!)」
ASDの人間
「(お・は・よ・う――これは挨拶文だな。社会常識なので返答せねば)オハヨウ。じゃ、また今度」 (すぐに立ち去る)
定型発達者A
「(何だこいつ、愛想のない奴だな)」

その後に続くはずの感情のやり取りが最初から存在しないため、会話のストリームは即座に遮断される。感情的な通信回路を持たないASDにとって、挨拶は本質的に意味がない行為なのである。

「意味がわからなくても、形だけやればいい」と、定型発達者は安易に説く。だがそれは、理解も納得もできない行為を毎日強要されることが、どれほどの精神的負荷を伴うかがわからない人間の言い分である。

挨拶のたびに、社会常識だからという理由だけで「腕立て伏せ」を強制される日々を想像してみたらいい。

「なんでいちいち腕立て伏せさせられているんだ?」

そう憤りを覚えるはずである。

誤解されることが多いが、ASDの人間は、他人とのコミュニケーションそのものを嫌悪しているわけではない。あくまで、定型発達者が無意識に用いている通信規格が苦手なだけである。

つまり、ASDの人間は、「感情を持たない」「感情を理解できない」というわけではなく、「感情のやり取りが苦手」ということであり、結果として、周囲からは「冷たい」「関心がない」と誤解されやすい。

むしろ、共通の趣味嗜好しこうや論理的興味を共有できる相手との高純度なコミュニケーションには飢えてさえいる。

結果として、自分の態度は相手によって劇的に変化する。

親友と活発に交流する自分と、赤の他人の前で一言も発せない自分。 その二面性を目撃した者は、同一人物の出力とは思えないほどのギャップに驚くだろう。

それは矛盾ではない。相手によって人格が変わっているのでもない。

通信規格が合う相手とは情報が滑らかに流れ、通信規格が合わない相手とは最初の接続確認で停止する。それだけのことである。

定型発達者が「愛想」や「社交性」と呼ぶものは、自分にとっては、仕様外の通信規格を無理やり実行することに等しかった。

常識の本質――多数派の暴力

一旦きっかけを掴めば、思考は自ずと個別の事象を超え、より抽象的な深淵へと沈んでいく。

◇ 本質の探究 ◇
そもそも常識とは何か

かつての自分は、常識とは「科学的かつ合理的な行動の集積」であると信じていた。だが、それはあまりに純粋すぎる誤解だった。 常識とは、科学的根拠や合理性などではない。

それは単に

「多数派の人間共が、好き勝手に振る舞ってきた結果」の残りカス

「定型発達者」という名の多数派は、何も考えず、ただ本能のままに振る舞っても、その言動の多くが自然と「常識の範囲内」に収まる。彼らにとって、社会は自らの延長線上にある。そりゃあ、生きていて楽しいだろう。

一方で、少数派であるASDの人間が本能のままに振る舞えば、その言動の多くは「常識の外側」へと弾き飛ばされる。

そして、この社会というシステムにおいては、少数派は事実上の強制をもって、多数派への同化を求められる。

「これが常識じゃあああ!」
「これが正常じゃあああ!」
「これが規則じゃあああ!」

だが、もしASDの人間がこの世界の多数派を占めていたならば、現在の状況は反転していただろう。

ASDの我々は、挨拶を繰り返す定型発達者を厳しく糾弾しながら、最高に充実した人生を満喫できていたはずだ。

定型発達者
「おはよう〜♪ (今日は最高の気分だ!)」
ASDの人間A
「うっぜーな、大した要件もねーのにいちいち挨拶すんなや」
ASDの人間B
「お前、異常やぞ」
ASDの人間C
「自分が人からずれてる自覚ないんか?」
ASDの人間D
「いい年して常識すらわかんねーの?」
ASDの人間E
「お前一人のせいで周りがどれだけ不快な思いをしてるか分かるか?」
ASDの人間F
「誰も言わないから、俺がお前のために心を鬼にして言うわ!お前マジで普通じゃないから、一回病院行け!」
ASDの人間G
「俺らの言ってることどっか間違ってるか?脳みそあるのなら反論してみろや」
定型発達者
「(自分なんか生まれてこなければ良かった……)」

という世界線を妄想してみたが、実際には、多数派になったASDが生きやすくなるとは限らない。むしろ、特性の強いASD同士の衝突や対立が多発し、今まで以上に生き辛くなる未来しか見えない……。

不可視のハンデ

何にせよ、現実世界はASDが少数派であり、多数派に合わせる他ない。

このとき、ASDの苦難をより深刻にするのは、その困難が身体障害のように「一目でわかるもの」ではないという点である。

「しない」のではなく、「できない」

見かけが五体満足であるがゆえに、定型発達者には、ASDの困難が「怠慢」や「やる気の欠如」として映る。「努力すればできるはずだ」「気合いが足りないだけだ」という言葉が、善意の顔をして投げつけられる。

しかし、努力や気合いで解決できるレベルの事象を、社会は「障害」とは呼ばない。身体障害と同じく、自力の研鑽けんさんだけではどうにもならないからこそ、それは「障害」として定義されているのである。

外見からは判別できないだけで、ASDの人間は、「片目が見えない」「歩行が困難である」といった身体的ハンデにも比肩ひけんする精神的コストを常に支払い続けている。

同化の代償

それでも、物理的な能力は備わっているため、挨拶や社交を「無理をして」こなすことは、ある程度可能だろう。しかし、その代償はあまりに大きい。

不自然な行動、納得のいかない儀式、意味を理解できない社会的作法を自分に強い続けることは、精神を内側から腐食させる。

逆の立場で考えてみれば、その異常さがわかるはずだ。

もし、定型発達者の諸君が、明日から毎日、「ASDのように振る舞え。それこそが常識であり、規則だ」と強制されたとしたらどうだろうか。

ずっと他人と対話せず、視線も合わせず、特定の対象にだけ執着し続けることを「常識」として強要される日々。そんな生活を続ければ、一週間も経たずに精神を病むことだろう。

ASDの人間に「普通に振る舞え」と要求することは、まさにその「地獄」を一生継続せよと命じているに等しい。

ASDの人間が日々直面しているのは、単なる「性格の違い」などではない。多数派という名の巨大な圧力が作り出した、逃げ場のない「構造的な拷問」なのである。

障害者手帳の取得――社会との不適合を補完する制度

自分がASDであることを確信し、障害者手帳を取得できる可能性があることを知った。

メリットしか無さそうなので、取得することにした。自分から言わなければ、人に知られる心配もない。

かかりつけの精神科へ行き、以下のようなASDやADHDの特性を把握するための自記式検査を受けた(実際には50問位)。

相手の表情や声の調子、その場の空気から気持ちを読み取ることが難しい。
冗談、比喩、遠回しな言い方よりも、具体的で明示的な言葉のほうが信頼できる。
予定の変更や手順の入れ替えが起きると、強い不安を感じる。
  • よく当てはまる
  • やや当てはまる
  • どちらともいえない
  • あまり当てはまらない
  • まったく当てはまらない

すでにASDやADHDの特徴は理解していたので、どれを選べばASDと判定されやすいかも予想できたが、手帳を不正取得したいわけではないので、正直に答えた。

結果、ASDの基準点を余裕で超えていた一方で、ADHDの基準点は超えていなかった。自分の体感としても、「たぶんADHDではない」と思っていたので、納得の結果だった。


診断によるラベリングには、自分の特性を理解しやすくなり、自己受容や適切な支援につながるというメリットがある。

一方で、「発達障害だからどうせできない」と診断名に縛られ、自分の能力や可能性を過小評価してしまうこともある。周囲の否定的なイメージや偏見を自分自身に取り込み、自己評価を低下させてしまうことを「自己スティグマ」という。

障害者手帳とは何か

障害者手帳は、本人の能力不足を証明するものではない。

現在の社会環境下において、認知特性や身体的特性が社会の仕組みと適合していない部分を、公的支援によって補完するためのツールである。

日本の制度では、障害の種類によって以下の3種類に大別される。

手帳の種類 対象となる障害 根拠
身体障害者手帳 視覚、聴覚、肢体不自由、内臓障害 身体障害者福祉法
療育手帳 知的障害 厚生省通知(自治体で異なる判定基準)
精神障害者保健福祉手帳 ASD、ADHD、統合失調症、うつ病など 精神保健福祉法

精神障害者保健福祉手帳の等級

精神疾患の状態、能力障害、活動制限、日常生活や社会生活への影響などを総合して判断される。

等級 障害の程度 日常生活・社会生活
1級 最も重い 食事、清潔保持、金銭管理、対人対応などについて、日常的に全面的な援助が必要。
2級 中等度〜重度 継続的な配慮や援助がないと、日常生活や就労の維持がかなり難しい。
3級 比較的軽い 基本的な生活はある程度可能だが、対人関係、就労、外出、手続き、ストレス対応などで支障が出やすい。

手帳所持による主なメリット

実際に受けられる支援は、手帳の種類、等級、自治体、所得、年齢、生活状況によって異なる。

  • 経済的支援:所得税・住民税の控除、公共交通機関の割引、公共施設の利用料減免など。
  • 就労支援:障害者雇用枠での就職、合理的配慮の提供など。
  • 福祉サービス:福祉用具・住宅改修の補助、ヘルパー・グループホームの利用など。

社会から届いた歩み寄り

自分は精神障害者保健福祉手帳3級、母親は2級である。

手帳の取得には、発行手数料や病院での診察料で数千円かかったが、氷見市の場合、心身障害者福祉金として、20歳以上65歳未満には年額1万円支給されるため、金銭的には元が取れる。加えて、写真撮影のために訪れる様々なイベントや公共施設で受けられる割引が地味に有り難い。

障害者手帳を受け取った時、自分の中には、どこか安堵あんどに近い感覚があった。

自分の困難が単なる怠慢や性格の悪さではなく、社会制度上も支援の対象となるものであり、その事実が公的な形で示されたからである。

それは、「お前は非常識だ」「お前は異常者だ」と言われ続けてきた人生に対して、社会の側から初めて差し出された小さな歩み寄りのようにも感じられた。

相対性社会――障害と異常はどこで生まれるのか

自分がASDであると認識してから約2ヶ月。

思考は個人の属性を越え、物理学の領域へと共鳴し始めた。

「この現実世界は、空間も、時間も、そして人間社会も、すべては相対的なものだったんだな」

そんな思索の中で、ついに障害の本質すらをも捉えるに至った。

◇ 本質の探究 ◇
そもそも障害とは何か

遺伝的多様性と形質の連続性、そして社会との相対的関係。

これらを論理的に統合すれば、本質はあぶり出される。

障害の本質を理解しているべき立場にある、政治家、行政職員、司法関係者、医療関係者、福祉関係者、教育関係者、メディア関係者、経営者――そして、この社会を構成するすべての人々。

しかし、その本質を真に理解している者が、果たしてどれだけいるだろうか。

◇ 障害の本質 ◇

障害とは、生き辛さの 主観的 指標 である。

ステータス・パラメーター――「標準」という設計思想

人間は出生時、あたかもゲームのキャラクターのように、両親から受け継いだ遺伝子によって決定された無数の「個体パラメーター」を割り振られて生成される。

以下は、そのうちのごくごく一部を 0〜100 の数値で仮に表した例である。

項目 グラフ(0~100)
知的能力
60
ASD特性
35
ADHD特性
45
ストレス反応性
70
ホルモンバランス
50
代謝の高さ
65
免疫の強さ
55
骨格の頑丈さ
70
ルックス
60
視力
65
聴力
45
身長
100
などなど

 

これら無数の項目のうち、たった一つでも「標準」から大きく外れたパラメーターをもつ項目があれば、その個体は社会生活において致命的な不適合を起こし、「生き辛さ」を感じることになる。

なぜなら、人間社会は、「標準的なパラメーターを持つ個体が最も効率的に生存できる」ように設計・構築されていくからだ。

例えば、他のパラメーターがすべて標準的だが、身長だけ 230cm と突出して高い個体を想像してほしい。

建築物、衣服、乗り物。あらゆるインフラは、おおむね 140cm から 190cm 程度の人間を想定して最適化されている。その個体は、身体的な欠陥ではなく、社会環境との相対的な不一致によって、強い生き辛さを感じるはずである。

主観による境界線――「障害者」の決定権

ある個体が「障害者」であるか否かを決定付けるのは、本質的には、法的な認定でも診断名でもなく、本人の「主観」である。

身長 230cm の個体が、社会生活の中で生き辛さを感じてその特異性を呪い、「生まれてこなければよかった」と絶望しているならば、その時点で彼は本質的な障害者である。しかし、もし彼がその高身長を武器にスポーツの世界で喝采を浴び、自らの生を全力で全うできているならば、当然障害者ではない。

極論を言えば、両腕がなくとも、目が見えずとも、その特性が本人の「生き辛さ」に直結しない社会環境にいるならば、本質的な障害は消失する。逆に、五体満足であっても、社会との凄まじい乖離かいりに苦しむ者は、その瞬間に本質的障害者となる。

身長、IQ、ASD特性といった連続的な分布(スペクトラム)に対して、229cm と 230cm を分かつような絶対的な境界線など存在しない。そこに線を引くのは、行政上の便宜べんぎという、本質とは無縁の要請に過ぎない。

正義の崩壊――自分という「異常値」

障害の本質を捉えたことにより、自ずと自分の立ち位置も理解した。

「自分が障害者なのって、周囲の無知と無理解のせいだったんだな」

周囲の人間が常識に囚われず、「そんな人もいるよね~」と多様性を真に受け入れられていたならば、自分がここまで生き辛さを感じることはなかったかもしれない。

しかし、現実問題として、それは極めて難しい。

それほど、自分の言動や思考プロセスが、標準からあまりにも大きくかけ離れていることを、自分自身が理解しつつあった。

「周りが異常だったんじゃない」
「自分の方が異常だったんだ……」

その確信は、自分の魂を支えてきた最後の柱をなぎ倒した。

自分がこれまで「絶対的な正義」だと信じて疑わなかった価値観そのものが、実は統計的な「異常値」から出力された、歪んだ論理だったのではないか。

「自分の正義って、相対的に見て異常だったのか?」

この問いは、自分と社会との間に、決定的な断裂が存在していることを示唆していた。

第4章予告:ASDを遥かに超越する本質へ

自分は、ASDという個体であった。

この事実は、半生にわたるコミュニケーションの不全や、執拗しつような偏食、そして身体の不調に至るまで、自分というシステムが抱えてきた膨大なエラーコードを鮮やかに解き明かした。

障害の本質を「生き辛さの主観的指標」として定義したとき、自分の内面において、一つの大きな物語は完結した――かのように思われた。

しかし、自分の知性が、この程度の結末で満足するはずがなかった。

この国にASDの人間など、山ほどいる。インターネットを検索すれば、当事者の体験談や専門家による解説など、すでに飽和状態にある。

「実は自分はASDでした~♪」

そんなありふれた告白のために、わざわざ貴重なリソースを割いて、この物語を執筆する価値などない。

何より、自分の魂を20年間拘束し続けてきたあの「人生の二大疑問」に対する回答は、未だ提示されていない。ASDという診断名は、この国を覆う腐敗の真理を説明するものではない。

ASDは、自分という存在を読み解くための重要な手がかりではあった。

しかし、それは自分の本質ではなかった。

さらなる思索の果てに見出されたのは、ASDなどという概念では到底説明しきれない、自分という個体の真の本質であった。

次章ついに、ASDを遥かに超越する「筆者の本質」、そしてこの国を覆う「腐敗の真理」が明らかになる。

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