沈黙する地域格差――都会と地方の初期装備
現在もほぼ変わっていないようだが、当時の東工大の学生構成は、約7割が関東出身者、残りの約3割が地方出身者だった。
一人暮らしを開始し、都会で生まれ育った同世代の学生達と接するうちに、自分の中には、言いようのない違和感と憤りが蓄積されていった。
それは、努力では埋めがたい「都会と地方の圧倒的な格差」である。何よりもまず、教育における初期装備の差に圧倒された。
同級生たちの多くは、小学校受験や中学校受験を当たり前のように経験し、高いレベルの教育環境で育ってきていた。都内を見渡せば、有名講師が教鞭を執る予備校が林立し、家庭教師を望めば東大生がいくらでも見つかる。当然、地方には、それだけの教育資源は存在しない。
格差は、教育に留まらなかった。モノ、情報、娯楽。そのすべてにおいて、地方は徹底的に切り捨てられていた。
- 物資:富山県では、スーパーや家電量販店の既製品以外のモノは入手困難である。パソコンのメモリ1つ買うにも、家電量販店で秋葉原の数倍の価格を払うしかなかった。
- 娯楽:若者向けの刺激はほぼなく、あるのは山と海だけ。テレビゲームをするか、一時間かけて富山市や石川県金沢市まで遠征する以外の選択肢がなかった。
- 情報:民放はわずか三局で、深夜帯の番組は放送されない。書店も貧弱で、最新の知見に触れるための窓口は極めて狭かった。
これが北海道や沖縄の離島の話なら、まだ諦めもついただろう。しかし富山県は、関東・関西・中京の三大都市圏のすべてから、車であってもわずか6時間ほどの距離にある。
「生まれた場所が6時間違うだけで、何でこんなにも差別されているんだ?」
そして自分は、自らの恵まれた環境に対して無自覚な都会の同世代に対し、激しい苛立ちを抱くようになった。
「こいつら、自分がどれだけ恵まれた環境で生きてきたかを理解してねーな」
不均衡な成熟――知性の牙と依存の檻
大学生になっても、自分はアルバイトを一切しなかった。学費と生活費のすべては親からの仕送りに依存しており、それを「恥」と感じることもなかった。
一般的に大学時代は、社会経験を積み、経済的な自立への準備を始める時期である。しかし、当時の自分にそんな意欲は皆無だった。
働くこと自体への嫌悪というよりは、社会という未知の領域に踏み出し、見知らぬ他者と関わることへの恐怖感や不安感が、防衛本能として自分を「親」という安全圏に繋ぎ止めていたような気がする。
「自分って、同世代に比べて精神年齢低くないか?」
そう感じることが増えていった。
自分の体感的な精神年齢は、中学生の時のままで止まっていた。
圧倒的敗北
大学1年生の夏休みに富山県に帰省した自分は、中学時代の親友と2年ぶりに遊ぶ約束をした。
彼は、自らディーラーと交渉を重ねて5年のローンを組み、300万で購入したという黒のワンボックスカーで迎えに現れた。
高校卒業後、ガソリンスタンドの正社員として働いている彼は、既に己の腕一本で社会に立ち、経済的にも精神的にも親から完全に独立していた。
助手席に座る自分は、表面的には平静を装いながらも、内心では圧倒されていた。
「バカな・・・。知的能力で圧倒的に上回っているはずの自分が、精神年齢で完全に負けている・・・」
「なぜだ!!!」
小中の他の同級生たちの近況を聞いても、皆一様に「自立した大人」としての顔を持っていた。自分なら、一人で300万の契約書にサインする勇気など到底持てない。事実、現在乗っている車の購入時でさえ、価格交渉は父親任せだった。
当時の自分は、「東工大生」というエリートの皮を被っていた。
しかし、その内面は、社会に出ることも、契約することも、他者と交渉することも恐れる、精神的に未成熟な子供であった。
統計という名の死神
大学1年生の夏休みが明け、2学期最初の講義に出席した時、同じ物理学科の一人の女子学生が、休暇中の交通事故で亡くなったという報せを受けた。彼女の両親は、学費にする予定だった150万円を大学に寄付したという。
高校までとは異なり、大学では個々人の繋がりは希薄である。自分にとって彼女は、「そんな名前の学生がいた気がする」という程度の、淡い認識の対象に過ぎなかった。
その死を悼むための弔慰金として、1人の男子学生が全員から500円ずつを回収して回っていた。しかし、その際の彼の言葉に、自分は激しい嫌悪感と違和感を抱かざるを得なかった。
「俺が殺したわけじゃないから(笑)」
同級生が一人、この世界から永遠に失われたというのに、なぜこれほどまでに軽く、無神経に振る舞えるのか。その精神の在り方が、自分には理解し難い不協和音として響いた。
思い返せば、浪人生活の最中にも、小学校の同級生が交通事故で命を落としていた。
たとえ年間の交通事故死亡確率が 1/10000 であり、自分自身がそのはずれくじを引かなかったとしても、小中高大の何百人もいる知り合いの中の誰かがそれを引く確率は、決して低くはない。
仮に知り合いが500人いれば、年間 1/10000 のはずれくじを10年間で誰かが引く確率は

すなわち、約40%にもなる。
統計上は低確率に見える「死」も、人間関係の網を広げれば、決して遠いものではなくなる。自分は改めて、この世界の理不尽さと、確率がもたらす結末の冷酷さを思い知らされていた。
萌えの断絶――「正義」という名の浄化
関東圏では、深夜帯にいわゆる「萌えアニメ」が多数放送されていた。
しかし、それらの作品群に対して、自分は驚くほど無関心だったため、1つの疑念を抱き始めた。
「自分って本当にアニメオタクなのか?」
決して、年齢と共にアニメ自体に興味を失ったわけではなかった。『セーラームーン』や『ドラゴンボール』への熱狂は、自分の中で依然として色褪せていなかった。
では、自分の心を捉えて離さないものの正体は何なのか。
その答えは、これまで愛してきた作品群の共通項を探ることで、自然と浮かび上がった。
セーラームーン、ドラゴンボール、るろうに剣心、幽遊白書、キューティーハニーF、カードキャプターさくら、シティーハンター、遊戯王、仮面ライダー、戦隊ヒーロー、etc。
これらの共通項は
戦闘
自分が真に求めていたもの――。
それは、「萌え〜」ではなく
正義
これこそが、自分が物語に求めていた核心であった。
正義の様式美
これらの作品に描かれる正義には、一定の美学があった。
主人公は、敵をねじ伏せた後、殺そうと思えば殺せる相手にあえて情けをかける。そうしてかつての強敵が仲間となり、さらに強大な悪へと共に立ち向かっていく。
ある種のワンパターンではあるが、その予定調和こそが重要だった。
最後には必ず正義が勝つ
その絶対的な安心感。その盤石な枠組みの中で、自分の理想とする正義が具現化される様を、自分は渇望していた。
逆に、この正義のパターンから逸脱する作品や、後味の悪い結末を迎える物語には、繰り返し鑑賞する価値を見出せなかった。
それらは、自分の内なる正義の定義を脅かすものであったからである。
悪という鏡――正義を知るための探究
この気付きにより、中学生の頃に抱いていた「悪への異常な興味」の正体も氷解した。
正義と悪は対極だが、表裏一体。
悪の理解なくして正義の理解は無い。
自分は、アニメや漫画というサブカルチャーを通して、これら根源的な問いへの答えを探していた。
フィクションの中で繰り広げられる戦闘は、自分の「道徳の定義」を確立するための思考実験の場であった。
真実に目覚めた恐るべき運命の1日
大学2年生終了時までの成績は、常に物理学科の約150人中50位前後で推移していた。
勉強方法は高校時代から変わらず、テレビを眺めながら参考書を暗記するという、受動的なものだった。
大学3年生になり、4年次の卒業研究を見据えて賃貸マンションの自室に導入したのは
インターネット
それまでは、レポートの提出時以外はパソコン自体を触ることもほとんどなく、たまに大学図書館のパソコンから検索する程度だった。
しかし、オタク気質であった自分は、瞬く間にその深淵へと没入した。インターネットの凄さを理解し、様々なソフトを使いこなすようになった。
「これからはインターネットが当たり前の時代になる」
そんな予感を抱きつつ、必然的に行き着いたのは、当時全盛を極めていた
巨大掲示板「2ちゃんねる」
大好きなテレビを見ながら、2ちゃんねるの実況板を眺める――そんな何の変哲も無い日常を送っていた大学3年生の秋、その「運命の日」は、何の前触れもなく突然訪れた。
どういう経緯でそこに辿り着いたのかという詳細は記憶に無い。何かを検索していてたまたまひっかかったのか、あるいは2ちゃんねるのコピペ経由だったかもしれない。
中学生の頃からよくニュースを見ていたので、日本国内の重大事件についてはおおむね把握していた。それゆえ、インターネットで検索する際の関心は、海外のシリアルキラーや拷問史に向かうことが多かった。どれほど凄惨な事件や残虐な拷問を知っても、感情的に辛くなることはなく、「自分は精神的にかなりタフな人間だ」と自負していた。
しかし、その結果として、自分が中学生になる以前の国内事件については、完全な盲点になっていた。
インターネットがなかったら、一生知らなかったであろう真実
しかし、インターネットがあれば、いつかは知ってしまう真実
できれば知りたくなかった真実
しかし、避けては通れない真実
1988年女子高生コンクリート詰め殺人事件
そのとき開いたページには、人間の所業とは思えない凄惨な犯行内容の記述が、終わりの見えないまま延々と連なっていた。
「これほどひどい事件は、世界中の犯罪史を見渡してもそうそう見当たらんぞ?」
ただ、事件の概要を一通り把握した後も、今振り返れば、自分は驚くほど平静だった。
「まあ、人間なんて、もともと残虐な生き物だからな……」
どこか冷ややかに達観したような精神状態ですらあった。
だって・・・だって・・・
その瞬間まで・・・
ずっとずっと信じていたから・・・
この国の正義を
「犯人は未成年だけどさすがに死刑かな~」などと呑気に考えつつ、最終的な裁判結果を確認し、人生最大の衝撃を受ける。
・少年A (主犯格18歳):懲役20年(求刑:無期懲役)
・少年B (準主犯格17歳):懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑:懲役13年)
・少年C (共犯16歳):懲役5年以上9年以下の不定期刑(求刑:懲役5年以上10年以下の不定期刑)
・少年D (共犯17歳):懲役5年以上7年以下の不定期刑(求刑:懲役5年以上7年以下の不定期刑)
「な・・・んだと・・・?」
「これは・・・何がどうなっている・・・?」
この瞬間、自分の関心は、事件そのものから、事件後の国や司法の対応へと切り替わった。
「この国の文系最上位層は、これほどの事件に対して、何を考え、どう動いた?」
「政治家は?裁判官は?検察官は?弁護士は?マスコミは?」
検索して引っかかるページを読み漁ったが、事件の概要や裁判結果はわかっても、当時の文系最上位層の思考はまったく読み取れなかった。
「何とかして、文系の思考プロセスを読み取る方法はないものか」と色々考え、思いついた。
「大学図書館にある過去の新聞を見れば、何かわかるかもしれない」
「おいおい、まさかそんなわけは無いよな?」と、一抹の不安を感じつつ、すぐに大学図書館に向かった。
置いてあったのは、たしか朝日新聞だったと思う。
事件の記事を探す中で、決定的な記事を発見した。
見つけたのは、社説ほどの小さな記事。
その記事にも事件の詳細は書かれていなかったが、その代わりに記されていたのは、日本弁護士連合会が出したコメント。
たった14文字。
しかし、天賦の才能を授かりし自分がこの国の文系最上位層の思考を読み取り、「真実」に目覚めるのには十分すぎる文字数だった。
それは、「死刑にしろ!」と怒りを露わにする一般国民に対して、日本弁護士連合会が吐き捨てたコメント――。
日弁連「国民は感情的になりすぎている」
「うわあああああああああああああああああ」
「この国は、陵辱と暴虐の限りを尽くして嬲り殺しにされた17歳の少女とその遺族を見捨てたのか!!!」
「なんだ、この国!!!」
ビックバン直後のインフレーションのごとく、一瞬にして膨れ上がった文系への憎悪。
このコメントには、「感情的になるのはお前らの知性が低いからだ」という嘲笑の意味合いが含まれているのは明らかだった。
そうでなければ、万一それが真理だったとしても、これだけの事件後の間もないタイミングでこんなコメントを出せるわけがないし、思いつきもしない。
「この俺の知性が、大学数学・大学物理はおろか、数Ⅲすら学んでいないような文系共に劣るというのか?」
そしてこれは、日弁連どうこうのレベルの問題で済む話ではない。なぜなら、最終的に裁判という場で判決を下したのは、日弁連でも弁護士でもなく、裁判官だからだ。
それはすなわち、表立ってコメントを発せずとも、政治家、裁判官、検察官――この国を牛耳る「文系最上位層」の本質的態度は、日弁連のそれと同じ根底であったことを意味していた。
その日、号泣しながらマンションへ帰った。
「命の尊さを説く道徳の授業も、平和の尊さを掲げる憲法も、何もかも嘘だったんだな・・・」
20年生きてきて初めて思い知る――。
「自分って、こんなにも無力だったんだな・・・」
見上げると、昨日までは青く見えていた空が、灰色に見えた。
たった一日で、世界は一変した。――いや、世界は何一つ変わっていない。変わったのは、世界を捉える自分の視界。
多くの事件の被害者や遺族たちもまた、ある日突然、事件に巻き込まれたその瞬間から、こんなふうに世界の色を失ってきたのだろう。
「この国はどこまで腐っているんだ?」
「もう終わってもいい・・・」
「駆逐してやる・・・文系共を・・・この国から、1匹残らず!」
思い返せば、司法の論理には、小学生の時からすでに相当な不信感を持っていた。
- 人を殺しても1人なら死刑ではない
- 人を殺しても殺意がなければ殺人ではない
- 人を殺しても15年逃げ切れば時効
- 複数の罪を犯しても、刑の上限は合算されない
- 精神異常があれば減刑
- 飲酒していたら減刑
- 薬物中毒なら減刑
- 未成年なら減刑
- 執行猶予という名の実質無罪
- 死者には人権がないが加害者にはある
それでも、「何かしら合理的な理由があるはずだ」と、自分自身を無理に納得させてきた。
だが、ようやく確信できた。合理的な理由など皆無。
「1から10までめちゃくちゃやんけ、こんなもん」
「ただ、正義がなかっただけ」
それにしても、わからない。
国が違えば正義が違うというのは、まだ理解できる。
しかし、自分の正義と自国の司法の態度が180度違うなんて、そんなことってあり得るのか?
日本の地で、日本人の両親から、日本人として生まれ、20年間日本の教育を受けて育ってきた。
「なのになぜ、自分の正義と司法の態度が180度違うのだ?」
どんなに考えても答えは見つからなかった。
対極にある二つの正義がぶつかり合う。
それが意味するのは
戦争
考えれば考えるほど、次から次へと、新たな疑問が噴出してくる。
1億人以上の人間がいれば、その中に異常者が現れること自体は、確率的に不自然なことではない。
「なぜ、よりにもよって国の中枢に異常者達が集まっているんだ?」
「なぜ、多くの大人はこんな法律に従っているんだ?」
被害者や遺族ではない一般人が法律に従うのは、まだ理解できる。
「なぜ、多くの被害者や遺族までもが判決を受け入れられるのだ?」
「自分や自分の大切なものを守ってくれなかった憲法や法律に従うことに一体何の意味が有るのだ?」
自分ならば、裁判結果に納得がいかなければ報復する。
報復の対象は、加害者とその家族はもちろんのこと、裁判官、検察官、弁護士、さらにはその家族にまで及ぶ。多くの人の「加害者本人以外に罪はない」といった論理は、自分には一切通用しない。報復手段も生半可なものではなく、徹底したものになる。簡単に殺しなどしない。
司法が断ち切らなかった憎しみ、必ず連鎖させる。
その強烈な信念のもと、中学生のときから、もし自分が被害者や遺族になったときの報復手段として常にシミュレーションしていたのは
ダルマ人間
ここでいう「ダルマ人間」とは、「生かしたまま、両手足をもぎとり、両目をえぐる」ことを意味する。
「確実に生かしたままダルマ人間を作るために医学部に行こうか」と考えたことすら、自分にとっては「自然な思考」であった。
しかし、日々凶悪犯罪が多数発生し、被害者や遺族を舐め腐った判決が連発されているにもかかわらず、現実に裁判官の家族がダルマにされたなんて話は聞いたことがない。
「なぜ、裁判官の家族はダルマにされないのだ?」
「この世界には、自分がまだ知らない『真理』が隠されているとでもいうのか?」
人間社会において、物事がある方向へ動くとき、何らかの利益を得ている主体が存在するはずだ。誰にとっても何の利益も生じない方向へ、社会が継続的に動き続けるはずがない。
「一体誰が何の利益を享受しているんだ?」
「原理と構造を理解するまでは早まるべきではない」
そんな思考が、かろうじて戦争を思いとどまらせた。
この日生じた二つの重大な問いは、自分の人生を懸けて『真理』を探究するに値する問いになった。
第一の疑問
なぜ、この国は被害者と遺族を見捨てたのか。
第二の疑問
なぜ、裁判官の家族はダルマにされないのか。
当然、この問いと、その背景を外部に漏らすようなことは一切しない。
表面上は優秀で穏やかな学生として振る舞いながら、その内面では、いつか訪れるかもしれない「すべてを理解する日」に備え、「文系」を大量かつ確実に駆逐するための最終戦争をシミュレーションし続ける日々が始まった。
その後、『真理』に到達するまでに要した歳月
実に20年
その『真理』は、20年間の人生経験と、文明の進歩がなければ到達できない、とてつもない深淵に隠れていた。
学問への情熱の死
「運命の日」を境に、自分はすべての勉学を放棄した。
楽しみにしていた量子力学や相対性理論の講義さえ、もはや聞く気がしなかった。
「文系の知性がこれほど腐敗しているのなら、理系がどれだけ真理を積み上げても無意味だ」
そんな底知れぬ絶望が、自分を支配していた。
当初抱いていた理論物理への情熱は急速に冷え込み、インターネットの奔流に身を任せる日々が始まった。
大学に行く気もしなかったが、退学して路頭に迷う勇気もなかった。
自分はただ、慣性に従って大学を卒業する道を選んだ。
研究室で露呈した無力
勉強を辞めれば、成績の急降下は必然。
大学4年生になったとき、一応第一希望としていた有機化合物系の研究室への配属は、成績不振のために叶わず、自分は「余り物」の実験系の研究室へと流れ着いた。研究内容に全く興味が持てず、自分は「幽霊研究室員」となった。
幸いにも教授が穏健な人物であったため、叱責されることもなく、たまに顔を出すだけの不真面目な学生生活が許容された。そこで自分は、一つの残酷な真実に直面する。
研究室に所属した後も、自分の中には受験の感覚しかなく、周囲の同世代がなぜ研究生活に順応できているのか、全く理解できなかった。自分以外の学部生や院生が「科学者」の一員になろうとしている中、自分はやる気もなく、研究の意味もやり方もわからず、はっきり言って何一つできなかった。
20年間、自分にとっての「学び」とは、用意された正解に最短距離で到達するゲームに過ぎなかった。しかし、実際の研究とは、暗闇の中で道なき道を切り拓く、果てしない思考と試行錯誤の集積である。
実際に研究室へ所属して初めて、自分は現代文明の土台を理解した。
現代文明は、何百年にもわたる世界中の科学者や技術者たちの膨大な思考と実験の積み重ね、莫大な研究費用、そして筆舌に尽くしがたい苦悩と犠牲の上に成り立っている。
その巨大な営みの前で、テストの点数にしか価値を見出せなかった自分の無力さに、自分は密かに涙した。
「自分って、テストで点を取る以外、何一つできないんだな(泣)」
何をしていいかもわからず、暇を持て余した自分は、ニコニコ動画に「タキシード仮面登場シーン70連発」を投稿するといった、退廃的で無意味な娯楽に耽溺していた。
形だけの卒論、形だけの進学
東工大の大学院入試を受けるも、当然のように不合格。
自分の研究室の教授が採点に関わっていたらしく、全受験生の中で自分が「最下位」だったと告げられた。白紙同然の答案を提出しており、聞くまでもないことだった。
東工大の大学院への道が閉ざされていることは、過去問を見た段階で理解していた。
そこで自分は、より現実的な選択肢として東京理科大学大学院を見出していた。過去問の内容は、学部2年次までの基礎に留まっており、自分にとっては「無勉でも合格できる」レベルだった。
筆記試験を余裕で突破した後、面接が待っていた。
面接会場では、10人以上の教授陣が、受験生を包囲するように「コ」の字型に座っていた。この光景には少し気圧されたが、心は冷めていた。「なぜ大学院に行きたいのか」という問いに対し、自分は「最初から行くつもりだった」と、あっさりとした回答を投げた。
結果は合格。
その後自分は、内容の伴わない、形だけの卒業論文を適当に提出し、東工大を卒業した。
中身のない卒論でも、学位は授与される。
そんな糞過ぎる学びだけが、自分の中に残った。
そして自分は、東京でのモラトリアムを延長させるためだけに、東京理科大学大学院へと進学した。
理想の残骸――延長されたモラトリアム
大学院へと進学したものの、自分の内側に巣食う無気力は、さらに深く根を張っていた。
少数精鋭であった国立の東工大の研究室とは対照的に、私立の理科大の研究室には10人以上の学部生や院生がひしめいていた。就職活動に奔走する他の修士1年生や学部4年生を横目に、自分は相変わらず「2ちゃんねる」と「ニコニコ動画」に入り浸り、現実の停滞から目を逸らし続けていた。
幸いなことに、指導教官である東大卒の准教授も穏やかな人物であった。生活態度の乱れを注意されることはあっても、声を荒らげられたりすることはなかった。その「優しさ」は、当時の自分にとって救いであると同時に、自らの不甲斐なさを浮き彫りにする鏡のようでもあった。
准教授が東大出身であった縁もあり、自分は一時期、実験のために東京大学の研究室へと出入りすることになった。 目的は、そこに設置されていた1200万円の実験装置の利用。そんな最先端の環境に身を置きながらも、自分の精神は依然として学部時代と同じく「適当にやり過ごす」ことに終始していた。
修士論文も、深い探究心に基づいたものではなく、ただ「卒業の要件を満たす」ためだけに書き上げられた代物に過ぎなかった。
運良く、学士から修士まで、自分が出会った指導教官たちは、揃って寛大な人物であった。彼らが最後まで自分を見捨てず、面倒を見てくれたことには、深い感謝の念を抱いている。
しかし、自分が今後「恩返し」できる未来を想像することはできない。
空虚な学位と失われた夢
かつて、崇高な夢と希望を抱き、人類への貢献を誓って始まった自分の大学生活。
しかし、その幕引きは、あまりに空虚なものだった。
- 費やした学費:親が心血を注いで稼いだ、莫大な資金。
- 費やした時間:6年間という、人生で最も瑞々しいはずの時期。
- 得たもの:形式上の学位と、この国の正義に対する絶望。
「何かを学ぶことも、何かを残すこともできなかった」
その確信だけが、冷たく自分の胸に突き刺さっていた。
学問の真理を求めたはずの6年間は、ただ学費と時間を浪費し、社会への恐怖を先延ばしにしただけのモラトリアムに過ぎなかった。
帰郷――修士号の果ての最終形態
大学院を卒業し、行く当てもなく、自分は富山県の実家へと戻った。
生誕から25年、累計2000万円近い教育費と学費を投じ、最高学府の修士号まで取得して到達した究極最終形態――。
ニート
ニート(NEET):「Not in Education, Employment, or Training」の頭文字で、15〜34歳の学校に通わず、働いておらず、職業訓練も受けていない若年無業者。
「自分は何のために生きているんだ?」
「2000万円の結果がこれなのか?」
絶望の淵で、「死」の一文字が脳裏を掠めることもあった。しかし、そのたびに、自分の中には狂気にも似た闘争心が湧き上がった。
「死ぬくらいなら、文系共との最終戦争を起こしてやる」
その危うい衝動が、かろうじて自分をこの世界に繋ぎ止めていた。
「腐敗の真理」への執念――唯一の合格者
大学院卒業後の1年間で、一応就活的なことはしてみていた。社会人としての自覚が芽生えたわけでは一切なく、ニートが暇すぎて逆に辛いという歪んだ動機だった。
その中で、民間企業から一度内定をもらうもその後採用を取り消されたり、塾の採用試験における模擬授業での失敗を経験した。
民間企業への就職が困難であると感じ始めたことで、公務員試験を受けることを思い至った。ただ、本気で公務員になりたかったわけではなかった。
それは、もう一度ペーパーテストで自分の知能の高さを確認したいという欲求、そして何より、「憲法や法律を学ぶことで、『この国の腐敗の真理』に近付けるのではないか」という執念による選択であった。
自分が挑んだのは、キャリア官僚への登竜門であり、合格者のかなりの割合を東大生が占める最難関の国家Ⅰ種試験 (現:国家公務員採用総合職試験)の「物理」区分。金沢会場では、約10人がこの区分で受験していた。
一次試験となる教養試験はマーク式で、憲法、行政法、商法、民法、刑法、労働法、国際法、政治学、経済学、財政学、社会学、歴史など、広範な文系知識の他、多少の物理、化学、生物、地学といった自然科学の問題や数理問題も出題される。
自分は、厚さ3cmほどの各分野の問題集を半年で20冊近く演習して試験に挑んだ。
参考までに刑法の問題を示す。
AはBを殺害する目的で、Bの飲料に「致死量の毒物だ」と信じて砂糖を大量に混入した。Bはその飲料を飲んだが、死亡することはなく、体調にも変化はなかった。Aの罪責として最も適切なのはどれか。
- ①殺人既遂罪
- ②殺人未遂罪
- ③殺人予備罪
- ④殺人罪の不能犯として処罰されない
| 選択肢 | 適否 | 理由 |
|---|---|---|
| ① | × | 殺人の結果は発生していない。 |
| ② | × | 生命侵害の具体的危険がなく、実行の着手が認められない。 |
| ③ | × | 準備段階ではなく飲ませる段階に至っているが、手段自体に危険性がない。 |
| ④ | ○ | 現実的危険がなく、結果発生が不可能。 |
後日、インターネット上の合格発表ページに掲載されていたのは、金沢会場で物理区分で受験した10人の中で自分の番号だけだった。
あぶり出された異常者――誠実さによる自爆
二次試験の舞台は名古屋。
大学3年レベルの専門知識が問われる記述試験であり、大学3年以降物理の勉強をほぼ放棄した自分には合格の芽がないことは明白だった。筆記試験での不合格を100%確信しつつも、面接試験もあったので記念受験することにした。
自分は、筆記試験がある公務員試験の面接は、大学院入試の面接と同じく、形だけのものと思っていた。しかし、そのついでに受けた「面接」が、自分の人生観を根底から揺さぶることになる。
後日、自宅に届いた結果は
面接:E判定(失格判定)
E判定は、記述試験の成績に関係なく、人間性において「公務員として不適格」と断じられたことを意味していた。
「え!?なんで?」
「あ・・・」
思い返すと、心当たりはあった。
面接官の前で、自分は「正直であること」を美徳とし、小学生時代の「検証」を意気揚々と語っていた。他の受験生が語る「研究活動」「サークル活動」「ボランティア活動」「アルバイト」といった平坦なエピソードに対し、自分だけの「唯一性」を誇示しようと考えた結果だった。
しかし、面接官たちの反応を思い返すと、「何言ってんだ、コイツ」とも言わんばかりの苦笑に近いものであった。 彼らの目には、誇り高き正直者ではなく、社会の調和を乱す「制御不能な異常者」として映っていたのだろう。
このとき起こったことは、「自分の思考回路が、多くの人間とは比較にならないほど異常である」ことを意味していた。
そもそも自分は、公務員試験、大学院入試、医学部入試において、筆記試験があるにもかかわらず、なぜ面接試験が存在するのかを理解できていなかった。
しかし、この時ようやく、真の理由に気付いた。
面接は、「選抜」のためにあるのではない。組織にとって危険な「異常者」をあぶり出し、排除するためのフィルターだった。
この敗北を経て、自分は決定的な学びを得た。
この社会で認められるためには、「真実」を語ってはならない。
大嘘や誇張で塗り固めた「偽りの自分」を演じ、いかに善良で優秀な市民に見せかけるかが重要である。
カルトとしての法学――真理なき権威体系
国家Ⅰ種試験の惨敗から一年、自分は再び公務員試験の舞台に立っていた。
今回選んだのは、国家Ⅱ種試験の物理区分と、地元である富山県地方上級の行政区分の併願であった。
地方上級の行政区分は、文系分野の問題しかなく、理系の自分にとってはその場しのぎの知識で太刀打ちできるほど甘くはなかった。上位40人の合格ラインには届かなかったが、試験後、自分は自らの立ち位置を「70位前後だろう」と予測していた。
後日、県庁に赴いて自分の順位を確認したところ、寸分の狂いもなく「70位」であった。不合格という結果以上に、自分のペーパーテストにおける客観的な位置取りを正確に把握する「メタ認知能力」の高さに、自分自身で驚きを禁じ得なかった。
一方、国家Ⅱ種の物理区分は余裕で合格。
二次試験の面接では、前年の「E判定」の教訓を血肉とし、徹底したカモフラージュを敢行していた。かつての「正直さ」を封印し、ありきたりで無難なエピソードを、いかにも真面目な好青年であるかのように語ったのだった。
しかし、国家公務員試験の合格は、単なる「採用候補者名簿」への登録に過ぎない。
実際に官庁へ採用されるためには、各省庁を回る「官庁訪問」という高い壁を越えなければならなかった。二週間にわたって都内のホテルに滞在し、警察庁、気象庁、経済産業省といった主要官庁の面接を梯子したが、一箇所からも内定を得るには至らなかった。
結局、国家Ⅰ種の一次試験を突破する程度には憲法や法律を学んだが、法の論理構造は当初の予測通りの極めてレベルが低いものであり、特別な発見を得るには至らなかった。
何より、「これ以上この国の憲法や法律を勉強したところで、カルト教団の教義を学ぶのと変わらない。洗脳が深まるだけで、この国の腐敗の真理に近づくことはできない」と思い始めていた。
一対一の教育現場での再生
自らの将来が完全な暗礁に乗り上げていた頃、たまたま個別指導塾講師募集のチラシが目に留まった。
塾の採用試験の模擬授業で見せた失態から、「大勢の前で喋ること」への強い抵抗感は拭えなかったが、一対一で行われる個別指導ならば可能かもしれないと思い、応募してみた。学力チェックは文字通り「朝飯前」であり、自分はあっさりと教育の現場へと足を踏み入れることになった。
指導を始めてすぐに、自分はこの仕事に対する自身の適性を確信した。
- 煩わしい組織論の不在:上司や同僚との人間関係に摩耗することなく、自らの領分だけで完結できる。
- 承認欲求の充足:生徒や保護者から「先生」として敬意を払われることは、自分の自尊心を静かに癒やした。
- 物理的・精神的合理性:通勤ラッシュという集団的狂気とは無縁の夕方始業。残業もなく、指導方針は自分の裁量一つで決定できる。
- 知的な越境:若い世代の純粋な感性に触れることは、自分に安らぎを与えてくれた。
唯一の欠点は、親への依存を断ち切るには程遠い「収入の低さ」であったが、出口のないニート生活に比べれば、それは大きな前進であった。
やがて自分は、個別指導の指導者という視座から、「日本の受験システム」を俯瞰するようになった。
すると、教育や受験に関する疑問が、次々と湧き出てきた。
その思索の積み重ねが、結果として、サイト『受験の月』の誕生へとつながっていくことになる。
逆転する鏡像――高校生に突きつけられた敗北感
指導者として教育の現場に立ち、自分はまず、目の前の高校生たちの「実態」に衝撃を受けた。
彼らの多くは、自分の高校時代とは比較にならないほど、真面目で、禁欲的で、そして精神的に成熟していた。
彼らの部屋にはテレビがなく、帰宅後の時間は、ごく当然のように学習へと投下される。スマホで遊び呆ける様子もなく、学校の課題や宿題に実直に取り組み、部活動との両立をこなし、自らの進路について真剣に模索している。自分の指導に対しても素直に耳を傾け、礼儀正しく振る舞う彼らは、どこからどう見ても「善き若者」であった。
自らの高校時代を振り返り、そのあまりの落差に愕然とした。
かつての自分は、常にテレビをつけながら、勉強しているという自覚すら希薄なままに問題集をただ眺めていた。受験生になってもプレイステーションを動かし、進路について深く考えることもなければ、社会のルールを守る気もない。大人に敬意を払うこともなく、挨拶をすることすら稀であった。
「普通の高校生って、こんなに精神年齢が高いのか?」
自分が指導する層が、大学受験を見据えた一定以上のレベルであることを差し引いても、彼らの「人間としての成熟度」は、かつての自分を遥かに凌駕していた。
知能の非対称性――努力では説明できない差
しかし、自分はここで一つの不可解な矛盾に直面した。
それほどまでに高い志を持ち、膨大な時間を学習に捧げているにもかかわらず、多くの生徒は国公立大学に手が届かないレベルで停滞していた。
「これだけ熱量があって、勉強時間も長いのに、なぜこの成績に留まっているのだ?」
そんな生徒たちを観察し続けるうちに、自分は一つの冷徹な仮説へと辿り着かざるを得なかった。
「結局は本人の『地頭』じゃね?」
もし、テレビを見ながら適当に勉強していた自分が東工大に合格し、これほどまでに真摯に机に向かっている彼らが基本問題で躓いているのだとしたら、その差を埋めている変数は「努力」ではなく、脳というハードウェアの性能差に他ならない。
「もしかして、自分って相当『地頭』がよかったのか?」
傲慢な自負ではなく、教育者としての観察と、統計的な視点から導き出された、自分自身の知性に対する再認識であった。
では、なぜ自分の「地頭」はよくなったのか。
当然、幼少期に親から与えられた教育によって形成されたものであると考えられた。
自分は、ここで一つの残酷な結論に達した。
高校生になってからどれだけ真面目に机へ向かっても、すでに勝負の大半は終わっている。
真に重要なのは、脳が発達する幼少期に、親がどれだけ良質な教育を与えられたかである。
集団教育の恐怖――同じ教室に潜む能力差
指導者となり、かつての母校である高岡高校の生徒を教えるようになって、自分は一つの絶望的な事実に直面した。
それは、同じ校舎に集う生徒たちの間に、学生時代の自分が想像もしていなかったほどの「能力差」が存在していたことである。
高校一年生の頃の記憶が蘇った。
数学の授業中、成績下位の同級生が、「次式の は何か」という極めて単純な問題を先生に問われ、パニックに陥っていた。
隣席の数学の得意な同級生とは、「考えるまでもないやろ(笑)」と囁き合い、その光景を不可解なものとして眺めていた。富山県No.2を誇る進学校であっても、下位層の数学力はこんなレベルに留まっていた。
当時は、彼らの成績が低いのは、「やる気がないから」だと思っていた。だが、それは傲慢な誤解だった。
「やらなかったんじゃない、できなかったんだ」
集団教育の棄民たち
県内No.5くらいの進学校の生徒達の間で、「高岡高校生なら最低でも金沢大」といった風説が広まっていると聞いた。しかし、現実は程遠い。
高岡高校生であっても、下位3割の生徒は、中堅国立大学である金沢大学はおろか、地方国立大学である富山大学にすら届かない。
そして学校側にとって、富大合格者が50人か100人かは重要事項ではない。教員や学校の評価においてより大きく注目されるのは、東大合格者が10人なのか、11人なのかという一点である。
つまり、集団教育のシステムにおいて、平均以下の生徒は実質的に「見捨てられた存在」である。現場には、知のレースを牽引するトップ層以外の生徒に構っていられる余裕など存在しない。
高岡高校(偏差値68)に合格したということは、中学3年時点では県内上位2割の学力を有していたはずである。
しかし、自分が指導した「現役時に高岡高校内最下位だった浪人生」の現役時のセンター試験の点数は、450/900 であった。これは、偏差値50程度の高校の学年平均とさほど変わらない数字であり、国立の富山大学はおろか、公立の富山県立大学の目安 500/900 にも遠く及ばない。
せっかく高岡高校に合格できたとしても、当落線上での合格だった場合、授業内容が理解できない、点数が取れない、意欲が摩耗する、といった悪循環に陥り、3年後には、普通の高校の学年平均レベルに学力が収束してしまうのである。
東大に上位合格可能な生徒(センター870/900)と、富山県立大学にも届かない生徒(450/900)が同じ教室で同じ授業を受ける、これが高岡高校、そして全国の多くの高校の現実であった。
相対評価の鉄槌――「死に物狂い」という名の幻想
指導者の立場で俯瞰し、自分は「相対評価」という概念の真の恐ろしさを、骨の髄まで理解することになった。
受験生の中には、「一生懸命に頑張れば、道は開ける」と素朴に信じている者が少なくない。しかし、その甘い期待は、指導者の目には「受験を舐めている」としか映らなかった。
大学入試は、相対評価の選抜試験であり、絶対評価の定期試験や外部模試とは本質的に異なる。
自分が80点を獲得しても、周囲が90点を取れば、自分は「敗北者」となる。客観的な視点で受験を俯瞰すれば、E判定からの逆転合格がいかに困難であるかは自明であった。
センター試験で致命的な失敗を犯した生徒が、「死に物狂いで勉強して、2次試験で満点を取ります」と威勢よく宣言することがある。
だが、2次試験で満点が取れるほどの実力があれば、最初から苦労はしない。彼らが想定している「死に物狂い」のレベルは、あまりにも低い。
本人が極限の努力だと思い込んでいるレベルなど、客観的に見れば「平均的な受験生の日常」に過ぎなかった。
自習を変える教材――『受験の月』の原点
自分に与えられる個別指導の時間は、多くても週に2回、1回2時間という、極めて短時間のみだった。
このわずかな時間で、受験を勝ち抜かせるには、「数学1科目しか指導できない」などという言い訳は許されない。受験は総合力勝負。必然的に、数学よりも努力が結果に反映されやすい、物理、化学、英語の指導へと踏み出すことになった。
これが、1科目の指導を極めればよい学校の教師や集団指導塾の講師とは決定的に違う点である。
しかし、ここで厳しい現実が立ちはだかった。
「一を聞いて十を知る」ような難関大レベルの知能を持つ生徒は、1年に1人巡り会えるかどうかである。大半の生徒は、マーク模試の得点が 400~600/900 の平均層であり、彼らの理解力は、「十を教えてようやく一を理解する」といった程度に留まっていた。
特に、丸暗記が通用しない物理において、この摩擦は致命的であり、時間は湯水のごとく失われていく。
短時間の指導で合格させるための解は一つしかない。自分の指導時間外、すなわち普段の「自習」の質を極限まで高めることである。
しかし、平均層に「問題集をこれだけ進めておいて」と指示したところで、彼らには問題集の解説を自力で理解するだけの能力がない。結局、自分が解説を加える羽目になり、時間は常に不足していた。
暗記を命じても、平均層は「どこを覚えるべきか」という情報の取捨選択ができず、「どう覚えるべきか」という暗記の仕方自体も知らない。「頑張ります」という意思表示は、次回の確認テストで無残に瓦解するのが常であった。
指導者の立場で、既存の教材を改めて見直した時、自分は強く感じた。
「効率悪すぎやろ」
結局、「最短で要点を理解・暗記する」という理想の受験対策を達成するには、どう考えても既存の教材では力不足だった。
「ならば、自分が作るしかない」
自分は、センター数学やセンター化学の要点まとめプリントをLaTeXで作成し、生徒に配布するようになった。
一旦プリントを作成してしまえば、生徒のレベルに応じて必要な箇所を選別し、要点を説明したうえで、「次回までにここを覚えておいて」と指示するだけでよくなり、指導効率は劇的に向上した。
限られた指導時間、自力で教材を活用できない生徒、既存教材への不満が、自習用の自作プリントという形に結晶化したものこそが、後に誕生するサイト『受験の月』の原型であった。
文系という謎――埋めがたい文理の断絶
それまで自分は、理系と文系の差など、単に興味の方向性が異なるだけの些末なものだと考えていた。
しかし、教育の現場で双方の思考プロセスを解剖し続けるうちに、看過し得ない違和感が蓄積していった。
「文系って、根本的に知能が低くないか?」
「というより、理系と文系って、そもそも脳の構造が違わないか?」
何より、自分には文系学生の思考が全く読めなかった。
文系の難関大志望者は、意欲も高く、学習態度も極めて誠実である。その勤勉さゆえ、既知のパターン問題であれば正確に処理し、高得点を叩き出す。しかし、そこには理系学生が共通して持つ「数理的センス」が不足しているように見えた。
自分は自問した。
「仮にこの文系学生が、理系と同等の情熱と時間を数学に投下したとして、果たして我々と同じ境地に到達できるのだろうか」
「否」
どれほど磨き上げても、彼らの知能は「数理的真理」を捉えるための受容体が、根本的に欠けているようにしか思えなかった。
「理系と文系は、生まれつき脳の構造が違う?」
「だとすれば、理系か文系かは、生まれつき決まっていたとでもいうのか?」
「そんなことがあり得るのか?」
インターネットで検索してみると、「右脳・左脳」といった俗説を含め、様々な説が見つかった。
しかし、自分の目の前にある「絶望的な思考の断絶」を説明し切る、納得のいく答えは見つからなかった。
気付けない者たちの閉鎖世界――教育現場を支える凡庸さ
個別指導を始めた時点で、自分の大学受験からは10年近いブランクがあった。
そのため、「自分の学力は未だ不十分である」という懸念は常に付きまとい、日々の指導を「きつい」と感じることが多かった。その苦渋の中で、自分は一つの疑問を抱くようになった。
「東工大卒、理科大院卒の自分ですらこんなにきついのに、他の教師たちは一体全体どうやって教えているのだ?」
ふとしたきっかけで、他の教師たちの指導実態を垣間見る機会があった。
「え!?嘘でしょ?」
自分から見て、それは「受験指導」になっていなかった。 大学入試を俯瞰することなく、目先の定期試験を「その場しのぎ」でやり過ごさせているにすぎなかった。
そのとき、この教育現場の根底にある「本質的かつ絶望的な構造」に気付いた。
「自分の指導レベルの低さに気付けない教師と、教師の指導レベルの低さに気付けない生徒と保護者」
「気付けない者同士、世界はうまく回ってしまうんだな・・・」
この経験を経て、自分の中にあった「自己評価」は劇的な転換を迎える。
これまでの自分は、YouTubeやSNSで目にするトップ予備校講師や東大卒の超一流指導者たちと比較し、自らの能力不足を痛感し続けてきた。彼らすらをも凌駕する圧倒的に高い理想を常に見つめ、自らの未熟さに打ちのめされていた。
しかし、現実は違った。
「この世の中、上には上がいるが、下には下がいる」
客観的な視点に立てば、自分はすでに、圧倒的な「上位層」に属していた。自分の「学力不足」という悩みは、皮肉にも、自分の理想があまりに高すぎたがゆえの贅沢な苦悩に過ぎなかった。
自分の視線は、もはや「目の前の生徒」だけには留まらなくなっていた。
「そもそも、指導者のレベルの底上げが必要ではないか?」
合格の裏側に広がる自尊心の空洞
自らの指導経験が積み上がり、指導技術が磨かれるにつれ、自分の視座はより高い境地へと移っていった。それと呼応するように、自分の理想と家庭側の教育観との対立が、徐々に表面化し始めた。
自分にとって、受験指導における唯一絶対の正義は「合格」である。 とりわけ、国立大学合格というあの達成感を、生徒にも味わってほしいという並々ならぬ想いがあった。
生徒の自力では届かないはずの志望校へ、自分の指導によって合格させる。
そこにこそ、自分の存在価値があると考えていた。
そのためには、当然ながら厳格な規律が必要であり、それが生徒の未来のためでもある――すなわち、Win-Winの関係だと信じていた。
しかし、現場に漂う空気は違った。
時代的なものなのか、多くの生徒や保護者が求めるのは、「合格」という結果以上に「楽しく勉強したい」「あまり厳しくしないでほしい」といった、どこか弛緩したプロセスであることが多かった。緊張感を嫌う彼らとの温度差に、自分は静かな苛立ちを覚えていた。
そもそも、大学入試の合否という結果は、以下の変数が複雑に絡み合って導き出される関数のようなものである。
- 生徒本人のポテンシャル(地頭の良さ)
- 生徒本人の努力量
- 指導者の能力と戦略
- 時の運
指導者の立場で俯瞰すると、一年前の時点で、これらの変数の出力結果は予測できてしまう。
そして実際に結果が出たとき、その合格が自分の指導による「付加価値」なのか、それとも本人の元来のスペックが高かっただけなのか、自分には残酷なほど鮮明に見えていた。
本人の能力が高かったがゆえに、自分が指導していなくても合格していたであろうケースは、決して少なくなかった。
そしてそれは、家庭側が本来不要だったかもしれない指導に対して、少なくない金銭を支払っていたことを意味していた。自分はその構造を理解していながら、平然とその対価を受け取っていた。感謝されるべき指導者どころか、結果としては家庭の不安に寄生していたのではないかという疑念すら、自分の内側に沈殿していった。
「たとえ世界を騙せても、自分自身を騙すことはできない」
生徒や保護者が「先生のおかげです」と頭を下げる横で、自分はただ、その言葉と実態の剥離に冷笑的な視線を向けていた。世界でただ一人、自分だけが「真の因果関係」に気付いていた。
「生徒がもともと到達するはずだった結果に、自分が偶然立ち会っただけではないのか?」と感じるたび、感謝の言葉は自尊心を満たすどころか、むしろ自分の存在価値の空洞を際立たせるものになっていった。
ゼロサムゲームの虚無――合格の裏側にある不合格
指導者として2回ほど生徒を大学受験に送り出した頃、「個別指導」という教育形態そのものに対して、拭い去れない疑問を抱くようになっていた。
自分が1年に担当できる生徒は、多くても10人程度、そのうち受験生は5人ほどであった。
仮に自分の卓越した指導によって、目の前の生徒を合格に導いたとする。しかしそれは、大局的な構造を見れば、自分の指導を受けられなかった他の受験生を一人、不合格の淵に突き落としたことに他ならない。
大学受験とは、合格者数が厳密に定められた相対評価の戦場である。
誰かが合格の喜びを享受する裏側で、他の誰かが涙を呑む。自分が一年という歳月をかけて行っている営みは、単に「合格」という限られた椅子の配置を、私的な都合で入れ替えているだけに過ぎないのではないか。
「自分のやっていることって、意味あるのか?」
「大学院まで卒業したのに、数人の合否を入れ替えを繰り返すだけで一生を終えるのか?」
生徒が合格するたびに、本来感じるはずの達成感は「空しさ」に上書きされていく。
自分という高出力エンジンが、あまりに小さな歯車しか回していないという、絶望的なミスマッチ。
受験というゼロサムゲームをプレイするうち、自分の存在価値への疑念は、日を追うごとに強まっていった。
※ ゼロサムゲーム:全プレイヤーの利得の合計(sum)が常にゼロになるゲーム。
対人スキルの機能不全――正解のない人間関係
個別指導を始めて以来、自分は常に、生徒や保護者との関係性に悩まされてきた。
高校時代から静かに伏流していた「コミュニケーション能力不足」が、社会という荒波に晒される中で、ついに地表へと噴き出したのである。
良かれと思って取った行動が、相手の逆鱗に触れる。意図せぬ一言が、年単位の時間をかけて積み上げた信頼関係を、修復不能なまでに破壊する。
悪意など微塵もない。相手に不快な思いをさせるメリットなど何一つない。
後から振り返ってみて初めて、原因が何となく予想できるが、時すでに遅し。
そのたびに自分は、指導終了、すなわち「クビ」という断罪を受けてきた。
激しい後悔と自己嫌悪の念に耐えつつも、何とか気持ちを切り替え、その都度「反省」し、次に生かそうと試みた。
しかし、前回のケースでは有効だったはずの「改善」が、別の親子の前では火に油を注ぐ結果となる。論理的なパターンが通用しない非定型な事象に対し、自分の脳は容易にフリーズし、パニックを引き起こした。
何をしてもことごとく裏目に出る。何が正解なのかが、全くわからない。
自分より指導レベルの低い教師たちが、なぜか生徒や保護者と円滑な関係を築いている。彼らは、自分にない「社交の天才性」を持っているように見えた。
「コミュニケーション能力まで含めた自分の総合的な人間力って、あのレベルの指導しかできない教師よりも下なんだな」
そう思い知らされるたび、自分の自尊心は、静かに削り取られていった。
社交辞令という名の大嘘――誠実さが冷酷に変わる時
多くの生徒や保護者が教師に求めているのは、学力の向上と同じくらい、「絶対に合格できる!一緒に頑張ろう!」という激励の言葉であった。
彼らにとって、それは「社交辞令」という名の潤滑油に過ぎない。たとえ最終的な結果が不合格であっても、その場の勇気づけを「嘘つき」と糾弾する者はいない。それは、自分にもわかっていた。
しかし、自分にはそれが言えなかった。
自分には、生徒のポテンシャルと現在の位置から導き出される「合格確率」が、残酷なほど鮮明に見えていた。高確率で不合格が予見される状況で、笑顔で「大丈夫だ」と告げることは、自分にとっては、単なる「大嘘」に他ならなかった。
「なぜ、他の人間は、息を吐くように、社交辞令という名の大嘘をつけるのだ?」
自分にとっての誠実さは、社会というシステムの中では、「冷酷」や「無関心」というラベルに変換されていった。
唯一の癒やし――自然体でいられる生徒たち
日々、綱渡りのような息詰まる対人関係の中で、10人に1人ほどの割合で、自分にとって「癒やし」となる生徒に巡り会えた。
彼らは、教師である自分に対して一切の壁を作らず、世間話や質問を絶え間なく投げかけてくる、圧倒的なコミュニケーション能力の持ち主、簡単に言えばおしゃべりな生徒だった。
こちらから無理に話題を捻り出す必要はない。彼らが勝手に語る学校生活での出来事や将来の夢を、「へー、いいじゃーん」と相槌を打ちながら、時折アドバイスを挟むだけで、そこには「擬似的な友人関係」のような自然な空間が成立した。
変に気を遣われることもなく、自分も自然体でいられる時間。それが、殺伐とした実社会における、自分の唯一の避難所だった。
常識という謎――知的対話の諦め
家庭や学校、そして職場で、自分は同じ言葉を繰り返し投げつけられてきた。
「お前は非常識だ」
その断罪を受けるたび、自分は思考の深淵に沈まざるを得なかった。
「そもそも、常識ってなんだ?」
「なぜ、人に簡単に『非常識』と言えるのだ?」
「自らが常識人だという確信はどこから来るのだ?」
「なぜ、院卒の自分が知らない常識をみんな知っているのだ?」
「いつ、どこで、どうやって、常識を身につけた?」
「そもそも、常識って正しいのか?」
もし自分が、ある人間を「非常識」であると断罪しようとするならば、少なくとも以下の三段階の思考プロセスを経なければならない。
- 定義の確認:まず、「常識」を定義する必要がある。ここでは仮に、「日本人の過半数が、ある状況下で「妥当である」と合意する行動指針」と定義する。
- 定義の充足確認:次に、その行動が定義を満たしているかを検証する必要がある。つまり、日本人の過半数がその行動を支持するという、経験的な証拠を提示しなければならない。
- 正当性の検討:仮に過半数が支持していたとしても、論理的、あるいは道徳的に「正しい」かどうかは別問題である。多数派の合意は、真理を保証しない。
当たり前だが、この三段階の思考を踏んでいる者など、一人として存在しなかった。
彼らにとっての常識とは、論理的な裏付けのある規範ではなく、単に「自分が不快に感じない範囲の慣習」に過ぎない。
つまり、「お前は非常識だ」という発言は、自身の感情を客観的なルールにすり替えた、極めて知性の低い甘えの表れである。
この一言を発した瞬間、その人物の思考レベルの低さは露呈する。厳密な定義も検証も経ずに他人を断罪する者とは、もはや知的な対話は成立しない。
自分は、彼らとの会話を打ち切ることを選ぶようになった。それは感情的な拒絶ではなく、これ以上会話を続けても有効な結論に到達しないという、論理的帰結であった。
生き辛い社会――知能の無力化
社会人になって初めて、明確に感じるようになった「生き辛さ」。
「この世の中は、なぜこんなにも生き辛いのだ?」
「相手のことだけを考え、喜んでもらえると思ってやったことが、なぜ毎回裏目に出るのだ?」
「今こんな酷い状況に陥っているのって、自分が悪いのか?」
生徒や保護者との適切な距離感が、全く掴めない。
そもそもコミュニケーションが何であるかも、なぜそれが必要なのかもわからない。奇跡的にすべてが噛み合ったときにしか、人間関係はうまく行かない。
「ただ、勉強を教えてあげたいだけなのに・・・」
「ただ、合格させてあげたいだけなのに・・・」
その純粋な想いは、コミュニケーション能力や対人調整能力が重視される実社会の前では、糞の役にも立たなかった。
知能と指導力の高さだけでは、社会は人を受け入れてはくれない。
相手の感情を察すること。適切な距離を取ること。場に応じた言葉を選ぶこと。不安を和らげ、期待を調整し、ときには本音を伏せること。
自分には、これらの対人調整能力が決定的に欠けていた。
サイト『受験の月』爆誕!
『受験の月』誕生前夜――三年の逡巡
個別指導の大局的な意義に疑問を感じ始めた2010年頃から、自分は考えるようになった。
「自作教材をネットで公開すればよくね?」
しかし、その直感を行動に移すまでに、自分はさらに3年の歳月を費やすことになる。
自分は、日常生活でも仕事でも、極めて慎重な人間だった。
あらゆる行動に起因する帰結をシミュレーションし、メリットとデメリットを天秤にかけ、「総合的な収支がプラスである」と確信できるまで、一歩も動くことができない。
人からは「行動が遅い」と評されることも多かったが、それは自分にとって、「無駄な損失」を回避するための必須プロセスであった。
当時、サイト作成に踏み切れなかった最大のボトルネックは、自分自身の学力に対する不信感であった。
「日本には1億人以上の人間がいる。自分より優秀な指導者も山ほどいる。そのうちの誰かが素晴らしいサイトを作れば、自分の入る隙などなくなるだろう」
そんな考えから、サイト作成の着手を躊躇していた。
しかし、待てど暮らせど、その「理想的なサイト」は現れなかった。
LaTeXを用いて高校数学を解説するだけの、極めてシンプルなサイト。発想が突飛なわけでもなく、技術的な難しさがあるわけでもない。
「なぜ、サイトを作る人間が現れないのだ?」
2013年、『受験の月』の誕生
2013年、他者の知性に期待してこのまま待っていても、永遠に理想は具現化されないと悟り、自分はついに自らの重い腰を上げる決断を下した。
まず「サイト名」はどうするか。 将来的に数学だけに留まらず、物理や化学への拡張を予見していた自分は、特定の科目名を冠することを避けた。また、教養ではなく、あくまで「試験の突破」に特化したかったため、「受験」という単語は外せなかった。
そして、そこに組み合わせたのは、自分の深層心理に深く根付いた象徴――。
『受験の月』の“月”は、セーラームーンに由来する。
プライベートメールアドレスにも「moon」の文字列を含めるほど、自分にとって「月」は特別な意味を持つモチーフだった。もっとも、当初はあくまで「仮名」のつもりであり、より相応しい名が浮かべば、変更するつもりであった。しかし、特に思い浮かびもせず、変更するのも面倒になり、結局このサイト名のまま、現在に至っている。
裏技サイトとしての限界
サイトの黎明期、その主力コンテンツは「センター数学の裏技」であった。
これは、小学生の頃から裏技や抜け穴を探し続けてきた、探さざるを得なかった自分の人生の写し鏡でもあった。
2013年当時、受験数学の裏技に焦点を当てたサイトはほぼなかった。
センター数学では、例えば「a/6公式」などは極めて実用性の高い裏技であり、公開する価値があった。
しかし、試験で真に役立つ「実用的な裏技」など、数多く存在するものではない。マニアックなだけの知識を並べても、それは自分が理想としていた「最速での合格」からは逸脱してしまう。
こうして、サイト開設からほどなくして、自分は「ネタ切れ」という大きな壁に突き当たった。
悲劇を使命へ――『受験の月』の現在を形作った真実
サイトの更新方針を模索していた頃、何かの参考にならないかと思い、実家に保管されていた幼少期の公文式の教材を紐解いた。
「馬鹿な・・・これほどまで・・・」
そこに刻まれていた「地獄の痕跡」を見た時に感じた戦慄を、今でもよく覚えている。
そこには、小学生の自分や妹に勉強を教えるため、母親が独学で勉強していた時の痕跡が残っていた。
理系の難関大学受験生ですら苦戦する数Ⅲの微分・積分に、大した学歴もない文系の母親が、公文式という独学には到底適さない教材を用いてたった一人で立ち向かう――。
それがどれほど無謀で、どれほど精神をすり減らす過酷な戦いであったのかが、遺された痕跡から鮮明に読み取れた。
中でも、次の式の横に記された「わからん」という一言は、特に衝撃的だった。
単なる学習者であれば、わからない箇所をいったん後回しにして先へ進むこともできる。しかし、人に教えなければいけない立場では、そういうわけにはいかない。「わからない」ことへの絶望の深さが、学習者と指導者では根底から異なる。
「たかがこんなもんのために、どれほどの苦悩があったのだろう・・・」
「『合成』という、わずか二文字だけでも解説されていたなら・・・」
母親は、自分と妹が学校に行っている間、専業主婦として家事をこなす傍らで、誰もいない部屋で、何十分、何時間と、数式という名の暗号と孤独に対峙し続けていたのだ。
指導者として多くの受験生を見てきたが、これほどの極限に達した人間を、自分は知らない。
率直に思った。
「人間が可能なレベルなのか?」
母親を突き動かしていたのは、「自分の無能で子供の将来、すなわち東大合格を潰してはならない」という強迫観念であったと推察できた。
断線――誓いの原点と真の対象者
この瞬間、10年前から抱えていた謎が氷解した。
なぜ、母親は統合失調症を発症したのか。
かつて母親は、「勉強していたある時、頭の中で何かの線が切れるような巨大な音が鳴り響いた」と語っていた。
当時は「ま~た変なことを言っているな」と聞き流していたが、これが決して比喩や誇張などではなく、脳が精神的な限界を超えた瞬間の「破壊の音」であったことを確信した。
世の教師たちは、軽々しく「死に物狂いでやればできる」と説く。
自分自身も、かつてそう言われたことがある。彼らには、「死に物狂いでやった結果、今の自分がある」という自負があるのだろう。
しかし、そんなものは、真の「死に物狂い」を知らない人間の戯言にすぎない。
統合失調症になるまでやってから、その言葉を吐きやがれ!
そして、決断する。
「もう、こんな悲劇を繰り返してはならない」
「高校数学を網羅しよう」
「そして、1つ残らず解説しよう」
「根幹の発想、全ての式変形の手順・理由・意味、問題の背景に至るまで」
そう、自分がサイトの読者として真に見据えていたのは、高校生でも、受験生でも、指導者でもなかった。
孤独な独学で子供の未来を支えようとしている、名もなき親たちだったのである。
狂気の執筆――1日10時間の平常運転
「なぜ、自分以外にサイトを作る人間が現れないのか」という問いの答えも、自ずと明らかになった。
「誰も作らなかったんじゃない、誰も作れなかったんだ」
学力・技術・アイデアがあっても、悲劇を背負い、それをエネルギーに変換して実行し続けられる人間が存在しないのだ。
生徒の指導は夕方以降なので、時間はある。自分は、生徒指導以外の時間をすべてサイト作成に捧げた。実家暮らしで、趣味もなく、扶養家族もいない。
約5年間、ほぼ毎日休みなく、1日10時間以上。
自分にとっては、それが「平常運転」で、全く苦を感じなかった。
サイト『受験の月』の理念は
- 無料で閲覧できる。
- 最速かつ独学で難関大レベルに到達できるよう、系統的かつ網羅的で、大学受験に必要十分な構成。
- 着想、式の意味、本質、背景知識、裏技に至るまで、受験に役立ち、かつ必要な知識の徹底解説。
- 教科書に匹敵する美しさ。
- 単純な読み物としても、知的興奮を与える内容。
自分が納得できない説明を、読者が理解できようはずはない。まだAIが存在しない時代、1行の説明に1週間悩み、1ページの制作に1ヶ月を費やすこともあった。
様々な試行錯誤を繰り返しながら、サイト開設から約2年で、現在の形式を確立するに至った。
存在価値の計数化
どれほど高い指導力を持とうとも、実社会はその異質さを認めず、ただ「社会性の欠如」というレッテルを貼って自分を迫害した。
「お前は非常識だ」
「お前は異常者だ」
著しく毀損された自己肯定感の中で、「自分は何のために存在しているのか」という問いに、常に押し潰されそうになっていた。だからこそ、サイト作成は、自分の存在価値をかけた戦いでもあった。
自分の価値を証明してくれたのは、アクセス数という「客観的な数字」だけだった。
数学が実施されるセンター試験の2日目、その数字は1年のピークを迎える。
ある年、いくつかの偶然が重なり、2日目だけで全受験生の約1/8 (推定)が自分のサイトを訪れた。
「自分の知性を必要としている受験生が、これほど多く存在する」
その事実を数字として確認した時、自分はようやく、この世界に存在している許可を得たような気がした。
サイトの広告収益が莫大なものだと誤解されることもあるが、現実は無慈悲である。 閲覧者の大半が未成年であるこの分野では、広告収益は驚くほど低い。サラリーマンの平均年収にも遠く及ばないその報酬は、1日10時間という労働量からすれば、全くもって割に合わない。実家暮らしという環境が、この非合理な活動を辛うじて可能にしている。
これまでに何度か、元受験生から「協力したい」という申し出を受けたこともある。だが、自分はそのすべてを断ってきた。
「根幹にある動機が違いすぎる」
単なる教育的関心や親切心で、この狂気的な執筆作業に並走できるはずがない。分配できるだけの収益もない。
自分は、「孤独な支配者」として、更新し続けるしかなかった。
聖人という誤解――賞賛の裏にある犠牲
サイトが成長するにつれ、多くの賛辞が届くようになった。
「めちゃくちゃ役立っています!」
「サイトのおかげで合格できました!」
中には、「あなたは聖人君子です!」という言葉まであった。
だが、それらの言葉が、自分の心を潤すことはなかった。
むしろ、賞賛されればされるほど、内側の空虚は広がっていった。
「聖人?自分が?」
この世界でただ一人、自分だけが知っていた。
サイト『受験の月』が、この世界に誕生した経緯を。
それは、善意だけで生まれたものではない。
教育への純粋な情熱だけで築かれたものでもない。
その背景には、17歳の少女が犠牲となった凄惨な事件があった。
母親の精神が壊れるほどの苦悩と、20年以上にわたる家族の戦いがあった。
そして、自分自身が「異常者」として社会から迫害され、10年以上にわたって孤独に彷徨い続けた時間があった。
読者の目に映る『受験の月』は、善意の学習サイトだったのかもしれない。
しかし、自分にとってそれは、痛みと憎悪と絶望を燃料にして築き上げた、存在証明のための砦だったのである。
第3章予告:回想録から自己研究へ
もし自分が、本質を捉えることのできない凡庸な人間であったなら、ここまでの内容を10年前の時点で切り売りし、安易な同情や共感を買うことで、自尊心を満たそうとしていたかもしれない。
しかし、ここまで語ってきた内容は、あくまでサイト誕生に至るまでの表面的な「経緯」を、時系列に沿って提示したに過ぎない。
読者にとっても、「そうだったのか」という程度の感想しか持ちようがないだろう。それだけなら、この記録には、公開する意義も価値もほとんどない。
事前に述べたはずである。
この物語は、単なる回想録ではなく、オートエスノグラフィーであると。
自分の半生の膨大な言動や思考とその変遷、それらすべての背景に「どのような原理があったのか」を、学術的な理論によって解明し、論理的に説明できなければ、本質を捉えたことにはならない。
そして、「人生の二大疑問」に対する回答も、未だ何一つ示されていない。それを示さずして、この物語に一体何の価値があろうか。この国に隠された「腐敗の真理」には、まだ一歩も近づいていない。
本質や真理を捉えていない物語に、読者の知性を揺さぶる力はない。
読者が信じてきた世界観・人生観・価値観・教育観を根底から覆し、今後の読者の言動や思考に変革を起こす「気付き」を与えることこそが、この執筆の目的の1つである。
- 自分という人間の正体は何か。
- なぜ、自分だけが『受験の月』を構築できたのか。
- そして、この国に隠された腐敗の真理とは何か。
これらの本質的な答えは、現時点では想像も及ばないほど深い階層に沈殿している。
この物語は、全8章で構成される壮大な思索の旅であり、ここまでの内容はまだ全体の 1/4 に過ぎない。
次章から、ようやく物語は、本質を含む「核心部分」へと突入する。
ここまで語られた成功も、悲劇も、憎悪も、再生も、すべては表層に過ぎない。その深層には、まだ名付けられていない原理がある。
ここから先は、想像を絶するほど悍ましい「真理」の領域である。