『光と闇』――本質探究の物語
もし諸君が、「これまで歩んできた自分の人生を一言で表せ」と問われたなら、何と答えるだろうか――。
ある現象を貫くすべてを、たった一言へと凝縮したもの――それこそが
本質
自分の人生には、これ以外の答えなどあり得ない。
あの日以来、ずっとこれだけの人生だった。
文系への憎悪
どんなに、どんなに、どんなにどんなにどんなにどんなに憎んでも憎んでも憎み足りる事などない。
常人では決して到達し得ない、桁違いのレベルの憎悪が、そこにはある。
最終警告――この先にある真実
全8章、20万字以上にわたって延々と綴られているもの――。
それは、「自分がどれほど文系を憎んでいるか」の精緻な詳細である。
単なる感情論ではなく、学術的理論を用いて解説する。ゆえに諸君は、これが単なる比喩や誇張などではなく、別次元の凄まじい「憎悪」であることを知ることになる。
これが最終警告である。
筆者の人生とサイト誕生の背景に横たわる恐るべき真実、そしてそれを説明する数々の学術的理論を知り、これまで信じてきた世界観、人生観、価値観、教育観そのものが根底から覆される可能性を覚悟した者しか読み進めてはならない。
天賦の才能を授かりし子供の誕生

198×年2月。能登半島で唯一、富山県に属する街、氷見市。
のちに学習サイト『受験の月』を運営し、この恐ろしい物語を執筆することになる一人の人間が、この世に生を受けてしまった。
家族構成は、婿養子として迎えられた消防官の父、自宅でピアノ教室を営む専業主婦の母、そして2年後に誕生する妹。さらに同じ敷地内の離れには、高校理科教師の祖父、中学国語教師の祖母、そして元数学教師の曾祖母がいた。三代にわたって「教育者」が名を連ねる、教育的資源に満ちた7人家族。その第一子長男としての誕生であった。
出生体重は約3800g。一見すれば、どこにでもいる健康で、恵まれた体格の赤子に過ぎなかった。
しかしこの時、その小さな体に「恐るべき天賦の才能」が宿っていることに、親も医師も気付けるはずはなかった。
幼稚園時代――母親が描いた設計図
母親には、揺るぎない一つの夢があった。
「我が子を東大に入れたい」
母親は、自身が苦労を重ねた経験から、「子供には同じ思いをさせたくない」と、当時から受験界で名を馳せていた和田秀樹氏の著作などを指針とし、独学で「東大合格へのロードマップ」を研究し始めた。
最終目標である東大合格から逆算した結果、当面の目標として導かれたのは、自宅の最寄り駅から電車で30分ほどの距離にある富山県No.2の進学校、富山県立高岡高校(偏差値68)への合格であった。
しかし、単に合格するだけでは不十分である。高岡高校において常に上位10位以内を維持することこそが、東大合格の現実的なラインとなる。母親は、その高いハードルを越えるべく、幼児期からの教育戦略を練り上げていった。
母親が戦略の柱として白羽の矢を立てたのは、多くの東大生を輩出した実績を持つ
公文式
公文式は、個人の能力に応じて、同じプリントを徹底的に反復したり、あるいは学年を超えて先へと突き進んだりできる計算ドリルであり、幼児レベルから大学教養レベルまで完備されている。
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引用元:KUMON公式ページ
算数・数学に留まらず、国語、英語、さらには一時期ドイツ語までもがカリキュラムに組み込まれた。それ以外の習い事としては、「東大生が経験した習い事」の上位を占める書道、水泳、ピアノが選ばれた。
こうして、完璧に整えられた教育環境の中で、天賦の才能はその萌芽を見せ始める。
しかしそれは同時に、のちの人生を狂わせる「憎悪」の種が蒔かれた瞬間でもあった。
蹂躙された食の快楽
幼稚園時代の記憶はほぼ失われたが、知能面では、公文式の先取り教育により、5歳の頃にはすでに九九を完全に習得し、簡単な二桁の掛け算もできていたと記憶している。
そんな中で、生活面において唯一、鮮烈に焼き付いている出来事がある。
幼稚園の給食で「たらこスパゲッティ」が出された時のことだ。
一口含んだ瞬間、脳を突き抜けたのは、「糞まずい」という、吐き気を催すほどの強烈な拒絶反応であった。しかし、当時の自分は、親のしつけによるものなのか、「出されたものは全て食べなければならない」という強迫的な義務感に支配されていたため、無理やりそれを喉の奥へと押し込み続けた。
結局、半分ほどを残して限界を迎えた。そして、その無謀な試みの代償は、あまりに大きすぎた。これが深いトラウマとなり、スパゲッティ全般はもちろん、あらゆる食材に対する心理的拒絶へと波及していった。
こうして、生涯にわたる苛烈な「偏食」の歴史が幕を開けた。
小学校時代――表面化した異質性
通ったのは、全校生徒150人に満たない、今はなき小規模な小学校であった。自分の学年だけはなぜか例外的に児童数が多く、2クラスで約40名が在籍していた。
公文式は、母親の指導のもと、小学生のうちに高校数学Ⅲの範囲である「微分・積分」の領域まで到達していた。公文式による先取り学習の恩恵もあり、成績は常に最上位。
しかし、そこに驕りが生じることはなかった。母親から「世の中には上には上がいる。小学校で成績がいいくらいで調子に乗るな。井の中の蛙になるな」と、幾度となく釘を刺されていたからである。実際、学年内には自分と同等、あるいはそれ以上の学力を有する者が少なくとも2名は存在し、その2名はいずれも親が医師であった。
非常に活発な性格で、クラス内でも目立つ存在であった。
水泳の経験から、運動神経も小さな学校内ではいい方だった。50m走では7秒9を記録し、学校対抗リレーの選手として市の大会に出場した。市の水泳大会では、バタフライ50mで44秒を記録して2位に入賞した。自由形50mは37秒、100m個人メドレーは1分40秒くらいだったと記憶している。
拒絶する脳と沈黙の生存戦略
幼稚園時代の「食のトラウマ」のせいで、自宅ではよく親に罵られた。その回数は、もはや数え切れない。
「残さずに全部食べろ!」
「親の作ったものが食べられないのか!」
「栄養を考えて作っているのがわからないのか!」
「作ってくれた人に失礼だと思わないのか!」
「食費がいくらかかっているかわかっているのか!」
「迷い箸をするな!」
「食べる前にいちいち匂いを嗅ぐな!」
こうした道徳や倫理を盾にした叱責は、学校でも同様であった。給食を完食するまで居残りさせられたこともあったが、誰に何と言われようとも、絶対に食べなかった。
この頃から、ずっと疑問だった。
「自分が何か悪いことをしたのか?」
「なぜ毎日、こんな罰ゲームを強要されるんだ?」
「食事とは本来、吐き気を抑えてまで遂行すべき苦行なのか?」
こうした過酷な状況に追い込まれたとき、知能の高い子供がどのような行動をとるかわかるだろうか。
知能の低い子供であれば、泣き叫び、暴れることで抵抗を示すだろう。一方、知能の高い子供は、必死に「抜け穴」を探索し、「人の裏をかく」技術の習得を試みるようになるのである。わざと床に落として不可食な状態にする、ティッシュに包んで隠蔽するなど、様々な手段を講じてその場を切り抜ける術を身につけていった。
自分とて、好んで偏食になったわけではない。できることなら、多様な食材を美味しく摂取したかった。その方が栄養的にも重要であることは理解していた。
だが、脳が「人間の食べ物ではないゴミ」と認識し、強烈な拒絶反応を示すのである。この耐え難い苦痛は、偏食の契機となった幼稚園への底知れぬ憎悪へと変換され、「大人になったらあの園を焼き討ちにしてやる」という、過激な復讐心にまで至っていた。
こうした環境下で知能が発達した結果、自分は極めて狡猾な側面を持つようになった。意図せず問題が起きた際も、大人に報告せず、自力で隠蔽・処理する習慣が定着した。
「大人に話したところで、理由も聞かれず一方的に責め立てられるだけである」ことを学習した結果、「沈黙こそが最大の安全策である」という結論に達したのである。
若い女性教師という光
小学5年生への進級に伴うクラス替えで、教師2年目の若い女性教師(高岡高校卒)が担任となった。
この先生のことが大好きで、毎日先生に会うためだけに登校していたと言っても過言ではない。小柄で、明るく、ハキハキとした立ち振る舞いの女性であり、何よりトップアイドルに比肩するほどの美人だった。
「男子児童は年上の女性に惹かれやすい」といった俗説も存在するが、同級生に好きな女の子がいたので、先生に対する感情は初恋的なものではなかった。
どうもこの時期から、自分の中で「年上の若い女性」という存在が、ある特定の抽象的な概念へと変貌を遂げていたように思う。
すなわち、美、優しさ、慈愛、そして安らぎといった価値観を体現する「象徴」としての存在である。「将来の上司は絶対に女性がいい」という志向も、この頃に形成された。
先生が自分のことを贔屓していたわけではないが、クラス内で目立つ存在であったことも手伝い、他の同級生よりも人一倍、自分のことを気にかけてくれているようにも感じていた。
破滅への萌芽
小学5年生の算数の授業中、先生が黒板に正方形、長方形、ひし形、平行四辺形の図を描き、ひし形を指し示して問うた。
「これが平行四辺形だと思う人は挙手!」

自分は正解を知識として持っていなかったので、その場で考え、迷いなく挙手した。
クラス内で挙手したのは、自分ただ1人だった。同級生から「やーい、1人だけ間違えた〜」という嘲笑が聞こえたが、自信があったので気にならなかった。むしろ、「ああ、みんなわからないのか~」と冷ややかに達観していた。
自分が思考したのは、極めて単純な一点のみであった。
「二組の対辺が平行である」という平行四辺形の定義を、ひし形が満たしているか否か。
それ以上でも、それ以下でもない。結果そうはならなかったが、もし先生に否定された場合は、「いや、定義満たしてるから平行四辺形の一種やろ」と反論する心積もりですらいた。
公文式という計算技術の反復訓練を主軸としていたにもかかわらず、将来自らを破滅に導くことになる恐るべき能力が、いつの間にか身につきつつあった。
情緒や空気を排し、真理のみを峻別する能力
論理的思考力
月の光――宇宙と女性象徴の結合
小学校中学年の頃までは、戦隊ヒーローや仮面ライダーに夢中になっていた。
高学年になり、自分の内面に新たな、そして決定的な影響を及ぼす対象が現れた。
美少女戦士セーラームーン
富山県ではテレビ朝日系列が入らないため、最初にどこでこの作品を知ったのか、明確な記憶はない。都会より約1年遅れでテレビ放送が始まったときにはすでに大好きで、第1話から視聴していた。
学校でも話題になり、同級生の男子達が「タキシード仮面の登場シーンがキザで面白い」と言っていたのが印象に残っている。
自分は、「興味がある対象ならば、より記憶力の強化に効果的ではないか」という仮説を立て、第1期全46話のタイトル一言一句を全て暗記するというチャレンジを自らに課し、完遂した。
また、この作品を通じて太陽系の惑星や準惑星の英語名(カタカナ)も自然と暗記した。実生活で役立つ場面は特になかったが、自分の知識体系に新たな語彙が組み込まれた。
| 日本語名 | 英語名 |
|---|---|
| 水星 | マーキュリー |
| 金星 | ヴィーナス |
| 火星 | マーズ |
| 木星 | ジュピター |
| 土星 | サターン |
| 天王星 | ウラヌス |
| 海王星 | ネプチューン |
| 冥王星 | プルート |
自宅には以前から、宇宙、恐竜、人体、昆虫、植物など、多岐にわたる小学生向けの図鑑が揃えられていた。中でも自分は「宇宙」と「恐竜」に強い関心を抱き、小学生の時点で太陽系の構造(中学で学習)は理解していた。
この「科学的知識としての宇宙」と、前述した「抽象的な象徴としての女性」が、自分の脳内で見事に結びついたものこそ、他ならぬセーラームーンであった。
「太陽系の各惑星を守護星として戦う美少女戦士」という設定は、当時の自分に強烈なインパクトを与えた。
小学校高学年以降、自分の脳内の片隅には常にセーラームーンが存在し、1つの強いこだわりとして、自分の人生や生活の随所に現れるようになった。
結論を先取りして言えば、『受験の月』の“月”は、セーラームーンに由来する。それほどまでに、この作品が自分の精神構造に及ぼした影響は計り知れないものであった。
暴走する高知能――多発する他害
小学校4年生を迎える頃から、「自分がある行動を選択した際、未来にどのような結果が発生するか」を予測する恐ろしい能力が芽生え始めた。
未来シミュレーション能力
厄介なことに、その能力は、「予測の正確さを検証したい」という歪んだ知的好奇心へと直結し、検証の手段として主に悪戯や他害が選ばれた。
「この行動をとれば、教師にこの内容で叱責される」という結末を予見していながら、いや、予見できているからこそ、確信犯的にそれを実行した。
案の定、予測通りの展開になれば、叱責の最中であっても「やはり的中した」という独りよがりの満足感に浸っていた。
教師から「反省の色が見えない」と指摘されたのは、至極当然の帰結である。そもそも、結果を見越して行っている以上、反省という概念そのものが存在しなかった。むしろ、大好きな先生の関心を独占できているという、倒錯した喜びすら抱いていた。
多くの児童は「罰」を恐れて行動を抑制する。しかし自分にとって、罰はシミュレーションの「構成要素」に過ぎず、行動を止める理由にはなり得なかった。
自分の行動は、回を重ねるごとに、「より刺激的で、より面白い検証結果」を求めてエスカレートしていった。
自分の「検証」において、特に深刻な事件が2件存在する。
検証①
小学4年生のある日、隣席の男子が着席する瞬間に、椅子の上で鉛筆を垂直に立てた。もちろん、芯が上を向くようにである。
「うぎゃああああ!」
「鉛筆が肛門から大腸を突き破り、大量出血」という致命的な事態には、肛門から数cm逸れていたために至らなかったが、尻に鉛筆が刺さったことに変わりはなく、当然病院送り。
両親と共に、その男子の自宅へ謝罪に行く羽目になった。
母親同士が知り合いだったこともあり、自分にとっては幸運にも、それ以上に問題が拡大することはなかった。
もし母親同士に面識がなく、これが「令和」の出来事であったなら――。
相手の親がSNS上で事件の経緯や怒りをぶちまけてネットニュースになり、学校や教育委員会に、
「学校は加害者の味方なのか!」
「危険な子供は即刻強制隔離しろ!」
「痛みをわからせるには体罰も必要だ!」
といった抗議の電話が殺到していた可能性もあっただろう。
検証②
最初はバレることを前提としていた悪戯だが、徐々に「発覚を免れるための巧妙な隠蔽」、さらには「冤罪の創出」へとシフトしていった。
小学5年生のある日、自分を含む何人かが体育館のステージ上にいた。
自分は、突然近くにいた男子に押され、その結果、1人の女子にぶつかってしまった。女子はステージ上から転落し、両手両足を広げた大の字の腹這いのまま、約1m下の体育館の床に叩き付けられた。
極めて危険な転落であった。
現場を見ていた教師は、直ちにその男子を厳しく糾弾した。その様子を傍らで眺めながら、自分は心の中で呟いていた。
「計画通り!!!」
実は、その男子は何も悪くなかった。
「自分が教師の視線を確認した上で、その男子を死角から挑発して自分に手を出させるよう誘導し、彼が自分を突き飛ばした瞬間、過剰なまでに大きくよろめき、女子児童に体当たりして彼女をステージ下へと突き落とした」というのが真実である。
奇跡的に女子は無傷だった。
もし万が一、脊髄損傷などの重篤な後遺症が残っていたら――。
突き落としたとされた男子とその親は、多額の賠償に直面していただろう。そして自分は、その光景を「傍観者」として眺めていたに違いない。
この真実を外部に明かすのは本稿が初めてであり、当然これまで誰にも知られていない。
事件②が真に深刻なのは、「自分が起こした問題を人になすりつけようとした結果として、たまたま冤罪が発生した」わけではなく、自分があらかじめ普遍的冤罪構造を発見済みで、チャンスを待って現実に落とし込んだものであった点にある。
つまり、「どうすれば構造的に冤罪を創出できるか」という日常の抽象的思考実験により、「第三者Cが見ている状態で、挑発するなど何らかの方法でAに自分を攻撃させ、その結果として生じた不慮の事故を装ってBに攻撃したならば、第三者Cから見るとAが完全な加害者であり、心を読まれない限り、自分が真の加害者であることは第三者Cには見抜けない」という、普遍的冤罪構造にすでに気付いていたのであった。
自分の思考は既に、特定の誰かを陥れたいとかそういう次元ではなく、構造そのものの把握や作成へと向かっていたのである。
そして、その実験的確認は成功裏に終わった。
検証③
さらに、未遂が1件あった。
ある日、自宅敷地内にある二階建ての蔵の屋上に登って遊んでいた際、階下を祖父が通りかかった。蔵の屋上には、経年劣化で剥離した数kgのコンクリートブロックが散乱していた。
この時、「このブロックを祖父の頭上に投下すれば、何が起こるか」という猛烈な衝動に駆られた。しかし、数秒のシミュレーションの後、「これはマジで取り返しがつかない」という論理的な判断が働き、寸前で思い止まった。
問題行動と確率の綱渡り
記憶の底をさらえば、これら以外にも問題行動は枚挙に暇がない。
これら以外にも、単純に同級生や下級生を殴った、嫌がらせしたみたいな行動は複数思い起こされる。
自分は長い間、「小学生なんて、みんなこんなもん」と思い込んでいた。しかし、今にして冷静に振り返れば、小学校高学年にもなって、これほど次から次へと問題行動を繰り返す児童が「普通」であるはずがない。
担任の先生は、「この子は知能が高いのに、なぜ問題ばかり起こすのか」と、困惑していたかもしれない。
これほどの暴挙を繰り返しながら、他者の、あるいは自分自身の人生を完全に破滅させる事態に至らなかった理由を問われれば、答えは一つしかない。
ただ、運が良かった。
特に、③の祖父の件が未遂で済んだのは、奇跡に近い。思い返せば、ブロックを持ち上げて手を離すだけなので、本当に紙一重だった。「よくぞ思い留まった」と、小学生の時の自分を抱きしめて褒めてあげたいと、振り返って思っている。
家庭崩壊の序曲――母親の豹変
当時、自分は母親が運転する車で、自宅から30分ほどの距離にある高岡市のスイミングスクールに通っていた。
ある日、レッスンを終えて車に戻ったが、運転席の母親は無言のまま、一向に車を出そうとしなかった。自分と妹は苛立ち、後部座席から「早く出せ」と怒鳴り散らし、運転席を蹴り飛ばしたが、膠着状態は2時間にも及んだ。施設管理者が「もう閉めますよ」と告げに来てようやく、母親は「わかりました」と一言だけ発し、車を出した。帰路の国道では、時速30kmという異常な低速運転だった。
また別のある日、自分が居間で勉強していると、突如として母親が金槌を持ち出し、ブラウン管テレビを粉砕し始めた。破壊の対象は固定電話や他の電化製品にも及び、自分は何が起きているのか理解できぬまま、その光景を呆然と眺めるしかなかった。帰宅した父親が「自分のやったことがわかっているのか」と問い詰めても、母親はただ無言でうつむくのみであった。
この頃、母親は突然暴れ出したり、奇声を発したりするなどの異常行動を繰り返すようになった。
そしてある日、自宅の玄関前に、近くに住む父親の兄が運転する車が止まった。自分は、母親がその車に乗せられ、どこかに連れて行かれる姿を見た。後に、母親が高岡市内の精神病院に入院したことを知らされた。病名は
精神分裂病
統合失調症(旧:精神分裂病)
統合失調症:脳の情報処理のバランスが崩れ、思考・感情・現実感覚などの「統合」が困難になる病気。
実態を正確に表して偏見を減らすため、2002年に改称された。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 主な症状 | 陽性症状: 幻聴・幻覚、妄想、思考の混乱など 陰性症状: 感情の平板化、意欲の低下、引きこもりなど 認知機能障害: 注意力・記憶力・判断力の低下 |
| 発症の割合 | 約100人に1人(誰でもかかりうる) |
| 原因 | 遺伝的要因(家族歴など) 環境要因(強いストレス、生活リズムの乱れなど) 脳内物質(ドーパミンなどのバランス異常) |
| 治療と支援 | 薬物療法: 抗精神病薬で脳内のバランスを整える 心理社会的療法: 認知行動療法・家族支援・社会復帰プログラムなど 環境調整: 睡眠・食事・ストレス管理、家族の理解 |
統合失調症は、「不治の病」ではない。一方で、再発のリスクもある。
早期発見および早期治療とその継続により、症状の安定(寛解)を維持し、自分らしい社会生活を送ることが可能になる。
完治ではなく、闘いの始まり
入院からしばらく経って母親の症状が落ち着いた頃、自分は父親に連れられて見舞いに赴いた。当時の自分には、事態の全容など到底理解できていなかったが、院長先生がかけてくれた言葉だけは鮮明に記憶している。
「必ずお母さんを元に戻してあげるからね」
3ヶ月ほどの入院生活を経て、正気を取り戻した母親は退院した。しかし、それは「完治」を意味するものではなかった。この時から現在に至るまで続く、家族と母親の病気との果てしない闘いの幕が開けただけに過ぎなかった。
母親がスイミングスクールの帰路に沈黙し、低速運転を強行した理由を後に聞いたところ、「道路がパズルピースのように分裂し、次々と浮き上がってくる」という凄絶な幻覚が見えていたのだという。
母親の不在と卒業式の伴奏
母親の入院中、小学校の卒業が目前に迫っていた。
ある日、担任の先生から「卒業式の合唱でピアノ伴奏をやってくれないか」と打診された。
自分は「絶対に無理」と拒絶した。ピアノ教師でもある母親が入院中で、指導を仰ぐことが不可能だったからである。しかし、先生からの「もう二度と君にお願いすることはないから」という半ば強引な説得に屈し、自分は伴奏を引き受けることになってしまった。
当時は、まだ精神疾患に対する社会の理解が乏しく、「世間体」を考慮して、他言すべきではないという空気が支配的であった。そのため、担任の先生にも母親の入院の事実は伏せていた。
本格的にピアノを習っていたのは小学校低学年までであり、数年のブランクがある自分にとって、この大役は絶望的な状況であった。
「母親入院中なんだけど、一人でどうすんのこれ・・・」
窮地に立たされた自分を救ったのは、母親の快復であった。試験外泊が許可されるまでに症状が安定し、その期間を利用して、集中的に教えを請うことができた。加えて、放課後にはピアノの弾ける二人の女子の助力を仰いで練習し、なんとか卒業式の本番までに演奏を形にすることができた。
中学校時代――内なる乙女心と美意識の覚醒
中学生になると、学習の主体は母親から自分自身へと移った。それに伴い、独自のこだわりが随所に現れ始めた。
顕著であったのは、ノート作成への執着である。授業中、自分は「美しいノート」を作ることに心血を注ぐようになった。しかし、その美しさとは、「東大生的ノート術」のような機能美ではなかった。自分が高揚感を覚えたのは、ラメ入りのカラーペンを多色使いし、見た目をキラキラと可愛らしく彩ることであった。仕上がったノートは、一見すれば女子が作成したとしか思えないものであった。
自分が当時どんなノートを理想としていたか、そして現在、本当はどんなデザインのサイトを理想としているか、自分の脳内の「kawaii」世界は、現在AIの画像生成によって容易に具現化でき、もう少し読み進めると掲載されている。
また、美術の授業で幾何学的抽象画を描く課題が出された際、周囲が円や四角形を組み合わせた無機質な構成に終始する中、自分は三日月やハートを組み合わせた図形を描いた。そのイメージの源泉は、言うまでもなく「セーラームーン」であった。
断っておくが、自分は当時も今も性自認は完全に「男」であり、昨今語られるLGBTQの文脈とは異なる。「女になりたい」「女装したい」などと思ったことも一度もない。しかし、自分の内面では、男性的な力強さや剛健さよりも、流麗さや可愛らしさを尊ぶ傾向が確実に存在していた。それを自分では、純真な「乙女心」のような抽象的な感性として捉えていた。
また、この頃から「フォント」という造形美にも強く惹かれ始めていた。期末試験の美術において、「漢字一文字を、指定された枠内にゴシック体と明朝体でそれぞれ描き分けよ」という問題が出された。書道の経験に加え、日頃からノートの余白でそれをやっていた自分にとって造作もないことで、完璧に描き出されたレタリングは満点を記録した。
こうした文字の構造に対する執着は、今も変わらない。現在でもiPadを用いてゴシック体や明朝体を描き、暇を潰すことがある。
知性では測れない友情
中学時代、自分には特に仲の良い3人の友人がいた。交流がほぼ途絶えた現在においても、自分は彼らを大切な「親友」として深く心に刻んでいる。
この3人には、学年240名中200位以下と、成績の低さにおける共通点があった。しかし、自分は彼らとの間に学力差による壁を一切感じることがなかった。会話の主題は、常にテレビ、アニメ、漫画、ゲームであった。いわゆる「オタク仲間」としての連帯が、知性の優劣を無意味なものにしてくれていた。
これらの娯楽は、小学生の時は親によってかなり制限されていたが、中学生になると干渉が希薄になり、のめり込む時間も多くなった。中学3年時には親友のうちの2人と同じクラスになったことも重なり、毎日が楽しかった記憶しかない。
当時、テレビゲームにおいては、アクション、シューティング、パズル、レース、格闘、ロールプレイングゲーム(RPG)と、ジャンルを問わず広範に触れていた。親友たちとは『マリオカート』や『ポケットモンスター』で対戦し、攻略法について電話で語り合った。
自分は、特に「タイムアタック」を得意としていた。小学生時代に公文式の反復練習によって培われた集中力と忍耐力は、同じコースを数百回試行し続けるという反復作業を、苦痛ではなく快楽へと変えていた。また、「RPG」においては、攻略本を精査してイベント発生条件や宝箱の位置をすべて把握し、最短かつ最も効率的な攻略ルートを構築することに喜びを感じていた。
中学時代の自分は、名目上は英会話部に所属していたものの、実態は「帰宅部」に等しかった。
自宅では、テレビ、ゲーム、漫画の世界に没頭し、学業に対して真摯に励んだ記憶は皆無に近い。
公立中学の平易な宿題を適宜こなし、試験前に最低限の確認作業を行う。それだけで、240人中1~10位という自分の学力順位が脅かされることはなかった。
理系の覚醒――世界の根源への没入
中学2年生になる頃、自分は一つの明確な確信を持つに至った。
「自分は100%純粋な理系の人間である」
なぜそう断言できたのか、当時の自分に明確な根拠があったわけではない。しかし、数学や理科で高得点を叩き出す一方で、文系科目に苦手意識を抱いていたことが、その自己定義を後押ししたのだろう。
そしてこの時期、自分の中で、自然科学への興味が爆発的に膨れ上がった。
自宅に多くあった偉人の伝記漫画の中でも、特にニュートンやアインシュタインといった自然科学者たちの生涯に強く惹かれた。科学雑誌『Newton』を愛読し、物理学、とりわけ宇宙論、相対性理論、量子力学、素粒子といった、世界の根源に迫る領域に強烈な好奇心を抱くようになった。物理学においては、「中学生でもわかる◯◯」といった入門的な解説本も愛読していた。
光は粒子か、波か――二重性という知の成熟
1660年代、20代のアイザック・ニュートンは、自宅でプリズム実験を繰り返す中で、白色光が屈折して赤から紫へと滑らかなグラデーションを描く、連続した色の帯(スペクトル;spectrum)に分かれることを発見した。

その後、1704年出版『Opticks』において、光を小さな粒子として扱う「光の粒子説」を提唱した。反射・屈折を説明できる点やニュートンの権威もあり、「光は粒子である」という見方は長く主流となった。
一方、ホイヘンスは「光の波動説」を主張した。しかし、実験的証拠が少なく、支持は広がらなかった。
19世紀に入ると、ヤングの二重スリット実験やフレネルの回折理論によって、光が干渉・回折する波として振る舞うことが、実験的にも数学的にも明確になった。さらに、ジェームズ・クラーク・マクスウェルが、「光=電磁波」を数学的に証明した。これにより、光の本質を探る議論は、一度は完全に決着した――かに思われた。
ところが20世紀に入り、「光=波」では説明できない現象が発見され始める。
アルベルト・アインシュタインは、光電効果の説明を通して、光は光子として振る舞うことを示した(1921年ノーベル物理学賞)。さらに、コンプトン散乱も光の粒子的性質を裏付けた。
19世紀に完全決着したはずの波動説に、再び揺らぎが生じたのである。さらにド・ブロイは、粒子であるはずの電子にも波動性があると予測した。そして、その予測は電子回折の実験によって実証された。
もはや、光も物質も、「粒子」と「波」のどちらか一方だけで説明することが困難になった。
一見矛盾する2つの性質がどちらも確かに観測されるとき、一方を否定するのではなく、「両方を併せ持つ」と解釈することこそが、最も合理的な態度である。
これは、人類の思考の成熟そのものを示している。最終的に量子力学が整備され、光は状況に応じて粒子的にも波動的にも振る舞う、「粒子・波動の二重性」を持つという現代の理解に到達した。
光は、観測されていない間は波動関数として広がる確率的な存在としてふるまい、観測の瞬間には特定の位置に粒子的な結果として現れる。
秩序を作る悪魔とエントロピーの謎
1871年、ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、一つの思考実験を提示した。
「分子を1個ずつ見分けて選別できる存在(悪魔)がいれば、エントロピー(無秩序さ)を減少させることができるのではないか」
これは、物理学の基本原理である熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)と矛盾しているように見える思考実験であった。
この思考実験では、仕切りで二つに分けられた箱の中に、気体分子が一様に存在している。
- 第1段階(初期状態):すべての分子が均一に混ざり合い、温度が一律な状態(高エントロピー)である。
- 第2段階(悪魔の操作):悪魔が「分子の速さを見極め」、扉を開閉して仕分けを行う(仕事はしない)。
- 第3段階(最終状態):左側には高速分子が集まって熱くなり、右側には低速分子が集まって冷たくなり、温度差が生じる。外部からエネルギーを与えていないにもかかわらず、秩序が生まれ、エントロピーが減少するように見える。
熱力学第二法則によると、孤立系において自然に進む過程では、エントロピーは増大する。ところが悪魔は、単なる扉の開閉だけで分子を選別し、温度差を生み出してしまう。
もしこれが可能なら、その温度差を利用して仕事を取り出すことができ、周囲の熱だけを利用して動き続ける第二種永久機関が実現してしまうことになる。

「悪魔は仕事をしないのに、なぜ熱力学第二法則が破れるのか?」
この矛盾は、その後100年以上にわたって物理学者を悩ませ続けた。
光が開いた莫大なエネルギーへの扉
1905年、アインシュタインは、「すべての慣性系で物理法則は同じ形で成り立つ(相対性原理)」と「光の速さは観測者によらず常に一定である(光速度不変の原理)」を出発点として特殊相対性理論を築き上げた。
その背景には、「もし光と同じ速さで移動できたら、光はどのように見えるのか」といった思考実験があった。
この理論は、時間の進み方も空間の長さも絶対ではなく、観測者の運動状態によって異なる相対的な量であることを明らかにした。たとえば、地上で10年が経過する間に、光速の99.5%で移動する宇宙船内では約1年しか経過しない。
その論理的帰結の一つが
(質量とエネルギーは本質的に同じものである)
光速 (秒速30万km)は極めて大きいため、その2乗は天文学的な数値になる。つまり、ほんのわずかな質量 であっても、想像を絶する莫大なエネルギー へ変換され得るのである。
1939年、原子核が分裂する「核分裂」という現象の正体が明らかとなった。それは、原子核の内部に、途方もないエネルギーが眠っていることを示す発見であった。
は、その恐るべき原理を理論的に裏付けていた。
1945年8月、広島と長崎で投下された原子爆弾は、上空数百mで炸裂し、内部の核分裂性物質が臨界条件に達したことで、連鎖的な核分裂反応が生じた。その結果、わずか1gにも満たない質量が、一瞬にして莫大な光と熱のエネルギーへと変換され、両都市で合計20万人以上の命を消し去った。
悪への傾倒――残酷さに宿る人間本質の探究
中学生に進学して以降、自分の中から、かつてのような他害の衝動は消失していった。
物理的に他者を傷つけることへの興味が薄れる一方で、異常なまでの「悪」への興味が芽生え始めていた。
それは、身近な人間に危害を加えるといった卑近なレベルのものではなく、「本質」を問う、より抽象的で哲学的な探究心であった。
当時の自分がどれほど「悪」という概念に魅了されていたかは、夏休みの読書感想文として提出した一冊の書名が、雄弁に物語っている。
この本は、通学路にある書店で偶然見つけたものだった。中学生が夏休みの課題としてこの書を選び、感想文を提出するという行為そのものが、当時の自分の異様な精神状態を象徴していたと言える。
感想文の詳細な文面こそ記憶の彼方にあるが、「人間とは恐ろしい生き物だ」という畏怖を綴った覚えがある。
血塗られた過去――正義が反転する瞬間
中学生になると、戦隊ヒーローや仮面ライダーといった実写特撮モノからは距離を置くようになり、代わってアニメや漫画の世界へ深く没入していった。
『セーラームーン』は言わずもがな、『ドラゴンボール』『幽遊白書』『るろうに剣心』『シティーハンター』――。
当時の自分は、自らを単なる「アニメオタク」「漫画オタク」と認識していた。
その作品群の中で、自分の精神構造に最も深く、そして不穏な爪痕を残したのが『幽遊白書』の「仙水編」であった。
幽遊白書第14巻の「血塗られた過去!!の巻」を中心として、「仙水編」のあらすじをまとめると以下のようになる。
幼い頃から並外れた霊力を持っていた仙水忍は、若くして霊界から霊界探偵に任命され、人間界と霊界を魔界の妖怪から守り続けていた。仙水は、常軌を逸するほど潔癖な正義の信奉者であり、「妖怪は存在自体が悪。等しく無に還すべきだ」と、一点の曇りもなく信じていた。
だが、ある任務の最中、仙水は決して見てはならない光景を目撃してしまう。
それは、彼がこれまで信じてきた価値観を根底から粉砕する、この世のものとは思えぬ悪の宴だった。正義であるはずの人間が、欲望のままに妖怪を弄び、貪り、踏みにじり、嬲りものにしていたのである。そこにあったのは、妖怪の邪悪さではなく、人間の底知れぬ醜悪さそのものだった。
仙水「うわあああああああああああ」
その瞬間、仙水の中で何かが決定的に壊れた。
彼は、そこにいたすべての人間を殺した。
仙水「ここに人間はいなかった。1人もな」
人間こそが悪なのではないか。守るべき存在などではなく、むしろ滅ぼされるべきものではないのか。
その疑念はやがて確信へと変わり、仙水は人間そのものに断罪を下すようになっていく。そして、ある日忽然と姿を消した。人間がこれまで積み重ねてきた最悪最凶の罪が、何万時間にもわたって記録された霊界の極秘資料、禁断のビデオテープ「黒の章」を奪い去って。
それから10年後。仙水は、新たな霊界探偵・浦飯幽助(主人公)とその仲間達の前に再び姿を現した。
人間は存在自体が悪。
その罪を償わせなければならない。
仙水は、人間そのものを裁くために帰ってきたのだった。
幽助「トチ狂ったそうだな?」
仙水「真実に目覚めたのさ」
霊界の長:閻魔大王の息子であるコエンマが幽助に告げる。
「奴は手強い。一度動き出した仙水は目的を果たすまで決して止まらない。」
ぶつかり合うのは、善と悪ではない。
互いに譲れない、二つの正義。
仙水は、10年の間に、幽助の師:幻海ですら到達できなかった究極の闘気「聖光気」をその身に宿していた。人間でありながらA級妖怪をはるかに超え、魔界最強のS級妖怪と同格の力を手にしていたのである。
かつて人間界と霊界を守っていた最強の男は、今や人間界と霊界の前に立ちはだかる最悪最強の敵となった。幽助は仙水の凶行を止めるべく挑む。しかし、B級妖怪並の霊力しか持たない幽助にとって、S級の仙水はあまりにも別次元であった。抗う術もないまま、幽助はあっけなく殺された。
自分の内面に潜む危険な影
当時の自分は、普段から「法律もルールも糞食らえ」「学校や社会のルールの抜け穴を突いてやる」「屁理屈でルールを論理的に無効化してやる」といった思考回路にあった。
そんな自分の自己評価は
「自分って、正義感が全くない人間だなあ(笑)」
だからこそ
「正義感の強い人間は、自分の価値観と真逆の現実に直面した時、狂気へと反転してしまうものなのか?」
といった思索を巡らせていた。
「所詮は漫画の話」と自分に言い聞かせつつも、思考の連鎖は止まらなかった。
「もし『黒の章』が実在していたら、何が記録されている?」
「人間が犯してきた最悪最凶の罪って何だ?」
「戦争?虐殺?拷問?レイプ?」
「これ以上の悪なんて存在するのか?」
「自分で人類最強の拷問を生み出せないかな?」
正義感が皆無で、延々と「悪」ばかり考えている――。
自分は、自分自身の内面に潜む危うさに気付き始めていた。
「自分って、一歩間違えると、とんでもなくヤバい方向に行くのではないか?」
頂点への無関心――学力と進路の乖離
定期試験や外部模試の校内順位は、国語や社会が足を引っ張っていたため、240人中5~10位に留まることが多かったが、1位だったことも数回あった。数学だけなら常に1,2番を争う位置におり、順位以前に「満点」であることが多かった。
小学校の頃から、英検合格を目指して英会話スクールAEONにも通っていた。小学4年時に英検4級、中学1年時に英検3級、中学2年時に英検準2級に合格した。その後、2級合格にも挑んだが二度敗退。高校進学後は英検2級を取得する意味も薄れ、結局、2級は取得していない。
中学3年2学期の定期試験の数学において、一番最後に膨大な計算量を要求される難問が出題された。試験終了ギリギリまで計算を続け、何とか答えに辿り着いた。絶対に間違っていると思いながら解答欄を埋めたが、結果は正解。その試験で満点を獲得したのは、自分だけであった。非常に印象的だったので、今でも答えが 61/6 であった事を覚えている。
地方都市において、高校受験は人生初の「選別」の場となる。しかし、受験生となった自分に、学歴や進路に対する向上心は皆無であった。「朝は一分でも長く寝ていたい」というだけの理由から、自宅からほど近い距離にある氷見高校を第一志望に据えていた。
しかし、担任の先生の説得を受けて志望校を富山県立高岡高校に変更、倍率は1.2倍ほどで、特に波乱もなく合格した。

高岡高校時代――急激に変わりゆく人格
氷見駅から、1時間に1本しかない氷見線に乗り、30分の通学。
車窓には、世界でも稀有な「海越しに望む3000m級の山々」を擁する、全国屈指の景勝地:雨晴海岸が広がる。晴天の日には、海越しの立山連峰が拝めるが、当たり前の光景すぎて誰も気にしない。

高岡高校の最寄り駅である越中中川駅周辺には、複数の私立高校も集中している。その1つに通う、中学時代からの親友と一緒の通学は楽しかった。
高校時代、塾などの習い事は一切なし。名目上は英会話部に籍を置いていたが、実態は中学時と同様の帰宅部であった。
放課後は自宅に直帰し、ずっとテレビを見たり、ゲームをしたりしていた。バラエティ番組を好んで視聴したが、特に見たい番組がない時でも、ニュース、ドラマ、映画、スポーツ、アニメなど、何かしらの番組を見ていた。
定期試験では、毎回学年240人中100位前後を推移していた。
一方、国数英だけの校内実力試験や外部模試では、30位前後に浮上した。国語が足を引っ張っていただけで、進研記述模試では、数学は最高3位、英語は最高9位だった。
母親に切り落とされかけた指
高校1年生のある日、二階の自室にいた自分は、父親の異様な怒号によって、一階で異変が起きていることを察知した。
階段を駆け下りた先で目にしたのは、血まみれで泣き叫ぶ、中学生の妹の姿であった。
その傍らでは、父親が「子供に何しとるんや!」と怒鳴りながら、母親の顔面を殴りつけていた。後にも先にも、父親が母親に手を上げる光景を見たのは、この時限り。殴打された後も、母親は「こいつは泥棒や!」といった、意味不明な言動を繰り返していた。
母親がハサミを持ち出し、妹の指を切り落とそうとして、その親指の付け根を深く切り裂いたのだった。幸い、どこにでもある玩具に近いハサミであったため、病院で縫合するのみで済んだ。妹が病院で「自分で切った」と虚偽の申告をしたため、警察沙汰にはならなかった。
「母親」とだけ聞くと体重50kg程度の体格の女性を連想するかもしれないが、自分の母親は体重70~80kgに達する巨漢なので、こんなものが我を忘れて暴れ始めた日には、成人男性2人がかりでも制圧は困難を極める。
「どうしてこうなった?」
統合失調症のせいなのは、まず間違いない。しかし自分は、さらなる根源的な理由を思索せずにはいられなかった。
「そもそもなぜ、統合失調症になったのか」
統合失調症は、およそ100人に1人が発症するとされる。当然、「たまたま」統合失調症になった可能性も十分考えられる。
しかし、以前に母親自身から、統合失調症になった理由を「勉強をしすぎたから」と聞かされていたことが、ずっと引っ掛かっていた。そんなことを言われても、「は?」としか思えなかった。
弱者の本能的選別
何が厄介って、精神の均衡を失った人間が他者を襲うとき、その対象が真に無差別であるとは限らない。
加害の矛先は、本能的に「自分より弱いもの」へと向けられる。
もし母親が自分を襲えば、自分は容赦のない報復を叩き込んでいただろう。正気を失った淵にあっても、その可能性を無意識に嗅ぎ取っているからこそ、報復能力を持たない妹が常に標的になる。
もし、あの場に父親がいなかったなら――。
もし、妹の流血を前にした自分が、論理ではなく激情に支配されていたなら――。
自分は、母親を殴り殺していたのではないか。その可能性がゼロではなかったと、思い返すことがある。
文系科目への敗北と嫌悪
国語は、現代文については勉強方法がわからず、学校の授業と宿題以外、ほとんど何もしなかった。古文・漢文も、単語や文法の最低限の暗記をしただけだった。
「そもそも古文・漢文なんて理系に必要ないやろ」という不満を抱いていた。その感覚は、現在でも変わっていない。
社会は、2年生からは世界史が必修となり、さらに地理と日本史の選択を迫られた。当時の自分は、依然として学業・学歴に対する向上心に乏しく、受験知識も皆無だった。「理系の大半は地理を選択する」という常識すら把握していなかった。
自宅には小学生の時にサンタさんに貰った日本史と世界史の漫画の全巻があり、それを愛読していたというだけの安易な理由で、愚かにも「日本史」を選択した。担任からは、「暗記量が膨大であり、理系には向かない」と忠告を受けたが、自らの記憶力に自信を抱いていた。
結果、理系の日本史選択者は学年でわずか5人ほど。そして、実際に授業が始まると、ただただ苦痛で、速攻で勉強しなくなった。
「何百年も前の話を暗記して何が面白いねん」
期末試験では、選択問題だけを適当に答えて9点だった。漫画が好きだっただけで、日本史そのものが好きだったわけではなかったことに気付き、「あ~、地理をとっておくべきだった・・・(泣)」と後悔した。
中学生のときは、漠然と「国語や社会がちょっと苦手かな」と感じる程度だった。しかし、この頃から文系科目に対して、単なる苦手意識や興味が湧かないというレベルではない、根本的な苦痛や生理的な嫌悪感のようなものを感じるようになった。
ここに来て、文系科目は「やる気が出ない」→「点が取れない」→「やる気が出ない」という恐怖の永久機関が完成した。
東大数学科卒教師との静かな衝突
高校2年生の時、東大数学科卒の男性教師が担任になった。
この先生は、「本質を掴むことが重要だ」と説いていた。
ある数学の授業中、自分は机の上に教科書だけを置き、腕を組みながら板書を眺めていた。巡回を始めた教師が、自分の手元にノートがないことに気付き、歩み寄ってきた。
先生 「ノートはどうした?」
自分 「ないです」
先生 「なぜないのか」
自分 「必要ないから」
先生 「必要ないって、お前は一番か(怒)」
自分 「いや、一番というわけでは・・・(苦笑)」
自分には、なぜ先生が激昂しているのか、その理由が全く理解できなかった。それどころか、周囲の同級生たちがなぜ一心不乱にノートを取っているのか、その行為自体に強い違和感を抱いていた。
中学時代には、あれほど執着して「可愛らしいノート」を作っていた。しかし、高校生になって気付いた。
「意味ねーな、これ」
どれほど美麗なノートを仕上げようとも、それは単なる「作業」であって「学習」ではない。当然、試験の得点に直結しない。普段からノートを見返し、その内容の理解と暗記をしなければ意味がない。
ならば、「ノートを作って見返せばいいではないか」という反論があるだろう。一般論としてはその通りなのだが、自分の場合、自作ノートを見返す気が全く起こらなかった。
審美性の呪縛と「解法暗記」の確立
中学で芽生えたフォントへの希求は、高校生になると、「手書き文字全般に対する生理的嫌悪感」のレベルにまで変貌を遂げていた。
洗練されたレイアウトや美しい活字でなければ、読む意欲が根底から削がれてしまう。
自作ノートも教師の板書も見るに耐えない。
「なぜ、板書の内容が最初から教科書に印刷されていないのか」
そんな不満を抱きながら、自分は授業中、『チャート式』を眺め、いわゆる「解法暗記」をひたすら行っていた。
計算力には絶対的な自信があったため、解答の論理構成さえ頭の中でイメージできれば、式を紙に書き出すことは無駄な手間でしかなかった。
高校以降、数学のみならず、物理や化学においても、紙面上で試行錯誤した記憶がほとんどない。ルーズリーフは持っていたが、ノートに至っては持ってすらいなかった。数学も物理・化学も、英単語の暗記と同じ感覚だった。
自宅での学習風景も異様であった。バラエティ番組を視聴して笑いながら、30%程度の集中力で問題集やその解答を眺め、解法を脳内に転写していく。
このような学習方法であったため、勉強と娯楽の境界線は存在せず、「一日何時間勉強していたか」という問いには答えようがない。静寂がかえって苦痛であったため、図書館や自習室を利用したことも一度としてない。
やがて、自分の数学の成績が上位であることがわかると、教師も何も言わなくなった。
本質を説く教師が見落とした本質
表面に現れていた事象は
ノートを取らない生徒
しかし、本質を重視していた東大卒の教師でさえ、「そもそもなぜ、この生徒はノートを取らないのか」という根源的な理由を考えようとはしなかった。
そして、あまりに重大な本質は見落とされた。
ただ、それも致し方のないこと。まさか、この事象のとてつもなく深いところに、驚くべき本質が隠れていようなど、当時の高校教師が洞察できるはずもなかった。
言葉を奪う知性――論理という檻
高校2年生になっても、進学や進路に対する意識は皆無に等しかった。自分の学力的な立ち位置を客観視しようとも思わず、「行ける大学に行けばいい、さすがに富山大学には行けるやろ」という、冷めた感覚の中にいた。
転機は、2年生の夏に行われた担任との二者面談であった。ここで自分は、初めて日本の国立大学(医学部以外の理系)の序列を知ることとなった。
- 1 東京大学 超難関
- 2 京都大学 超難関
- 3 東京工業大学(現:東京科学大学) 超難関
- 4 大阪大学 難関上位
- 5 名古屋大学 難関上位
担任からは、「優れた教育・研究環境がある東大を目指すべきだ」と説得された。しかし、校内成績や外部模試の結果から、「自分は文系科目の成績が悪く、東大は無理だろう」という認識があった。
一方で、首都・東京への強い憧れがあり、最初から関西や中京という選択肢は志向の外にあった。必然的に、この時初めて存在を知った「東工大」(地方では無名)への想いが強くなっていった。
「東京にあり、超難関国立大でありながら2次記述試験に国語がない」という事実は、自分にとって衝撃であった。
「自分のためにある大学やん」
直感的にそう確信した自分は、この時初めて「東工大」という具体的な目標を視界に捉えた。
20分の沈黙――言葉が出口を失った日
ていうような進路の話は、ぶっちゃけどうでもいい。
実は、この面談の時、恐ろしい事態が発生していた。
当然、担任からは「志望はあるのか」など、様々な質問が飛んできた。しかし、何を答えるべきか、どう表現すべきかが、突如として分からなくなり、約20分間にわたって、自分はほぼ完全な沈黙に陥った。
担任「なぜ何も喋らないのか。不快だ」
担任に咎められながらも、言葉は出口を失っていた。自分でも理由が分からず、激しいショックを受け、面談後に半泣き状態で帰宅した。
今考えると、その時思った事を素直に答えれば良かったと思うのだが、自分でも気付かぬうちに、自分の内面に完成してしまっていた思考様式は
完璧主義
- 定義への固執:「志望」の定義とは何か。どの程度の確信があれば、「志望」を名乗ってよいのか。
- 解釈の不一致への恐怖:相手の質問の意図を、その背景まで含めて、一分の狂いもなく理解できているのか。
- 不確定要素の排除:未来のことは不明確なのに、適当な返答をして「嘘」をついていることにならないか。
頭の中でこれらの思考が多発的に連鎖し、論理的な整合性を構築している間に、時間は過ぎ去る。焦燥の中で次の質問が重なり、思考はさらに複雑化して飽和する。
いつの間にか自分は、日常会話にすら、数学的な証明と同等の厳密さを求めるようになっていたのである。
社交性の崩壊
小中時代の自分は、どちらかと言えば饒舌で、人前で目立つことを好む性格だった。
しかし、この時期を境に、他者とのコミュニケーション全般に対して、猛烈な億劫さを感じるようになり、気心の知れた友人以外とは、家族とも他人とも、挨拶すらまともに交わさなくなった。
当時は、それを「思春期の訪れ」と認識していた。
確率への畏怖――死はどこかで必ず収束する
数学における確率論、そして物理学を本格的に学び始めた頃からだろうか。
「ミクロの世界において、粒子の位置は確率的にしか決定できない」という量子力学的観点も、多分に影響していたのだと思う。
自分の中に強固に形成されていったのは
この世界は、本質的に確率の集合体である
確率の理解が深まるにつれ、現実の社会的事象や、自らの人生における出来事までも、確率的・統計的に思考するようになった。
特筆すべきは、自分が「極めて低い確率」に対して、異常なまでの感受性を持つようになったことである。
中学生までの自分は、交差点で左右を確認せず、赤信号でも自転車で突き進むような無謀な行動を、平然と繰り返していた。
当時、事故に遭わなかったのは、単に運が良かったという結果論に過ぎない。しかし、低確率の事象であっても「現実に起こり得る」という認識を持ってからは、慎重にも慎重を期す、石橋を叩いて渡るような行動原理へと転換していった。
やがて自分の思考は、低確率の究極形ともいえる事象の本質へと向かっていった。
「死」は、至る所に確率的な波として存在しており、ある瞬間の観測、すなわち事象の発生によって収束し、現実の「死」として観測されるだけではないか。
そう考えるようになると、死は突如として、身近で恐ろしい重みを持ち始めた。
30年前、日本で1年間に交通事故で命を落とす確率は、概算で 1/10000 であった。自分は、この数字の背後にある意味に震え上がっていた。
なぜなら、この 1/10000 は、「数学的確率」ではなく、「統計的確率」だったからである。
サイコロにおける 1/6 は数学的確率であり、6回振ったからといって必ずしも「1」の目が出るわけではない。しかし、統計における 1/10000 は、「昨年、1万人あたり1人の割合で、死というハズレくじを引かされた人間が確実に存在した」という紛れもない現実を示している。
仮に、1/10000 が数学的確率であったとしても、日本には1億人以上の人間が存在し、それぞれが移動し、偶然と接触し続けている。その膨大な試行回数の前では、どんなに小さな確率であっても「無」ではなくなり、ほぼ確実にどこかで現実化する。
確率が小さいことは、起こらないことを意味しない。たとえ善行や努力を積み重ねてきた人間であったとしても、確率という冷酷な神の裁きから逃れる術はない。
自分は、この確率の真の恐ろしさを理解し始めていた。
そして、自分が今日まで生き長らえているという事実は、常に 9999/10000 の側に入り続けてきたことを意味する。だがその事実は同時に、見知らぬ誰かが 1/10000 の側を引き受けてきたという、残酷な等価交換の存在を意味している。
「自分の幸せって、誰かの不幸なんだな」
確率は、この現実世界の薄情さ、残酷さ、不公平さ、不平等さ、理不尽さを、冷酷なほど正確に、数学という言語で記述している。
自分はその事実を思い知らされたのだった。
同時に、この確率的に考えるからこそ、この無常ともいえる現実世界で、自分がいかに恵まれた環境に置かれているかを理解し始めた。
「自分が、この平和な時代の日本に、教育の重要性を理解しているこの両親のもとに、障害をもたず生まれてこれたこと。これまで大きな事故や病にも見舞われず、普通に生きていること。この当たり前の日常そのものが、奇跡に近い確率なのではないか?」
ランダムへの畏怖 ――偏りを生む公平
高校で確率を学ぶまで、自分は漠然と「ランダムならば公平である」と信じていた。
しかし、自分が当時思い描いていた「公平」とは、「結果に偏りがない」という意味合いであり、数学が定義する「ランダム」の本質とは、決定的に異なっていた。
次の二つの数列のうち、真にランダムなのはどちらだろうか。
① 1,
3,
2,
2,
1,
3,
2,
1,
3,
3,
2,
1,
2,
3,
1,
2,
2,
3,
1,
2,
3,
1,
3,
2,
1,
1,
3,
2,
3,
2
② 3,
2,
1,
2,
3,
1,
2,
1,
3,
2,
3,
1,
2,
3,
1,
3,
2,
1,
2,
3,
1,
2,
3,
1,
3,
2,
1,
2,
3,
1
| 1 | 2 | 3 | |
|---|---|---|---|
| ① | 9回 | 11回 | 10回 |
| ② | 10回 | 10回 | 10回 |
一見すると、各数字の出現回数が均等で、同じ数字の連続もない②の方が「ランダムらしく」見える。
しかし、数学的に不自然なのは、むしろ②の方である。
真にランダムであるならば、各試行は「独立」であり、直前に何が出たかは、次に出る数字に何の影響も与えない。毎回すべての数字が 1/3 の確率で等しく出現するのであれば、同じ数字が連続することも、特定の数字が部分的に偏ることも、極めて自然な現象である。その意味で、①のほうがランダム的である。
ランダムなればこそ、部分的には「偏り」が生じる。
しかし、試行回数が多くなると、全体的には偏りが薄れていく。
多くの高校生は、この性質を知識として受け流すだろうが、自分はこれを現実社会に適用し、愕然とした思いに囚われていた。
確率の恩恵を受け、富裕な家庭に、端麗な容姿と高い知能、そして健常な肉体を持って生まれた者Aがいたとする。ランダムな試行が繰り返されるこの世界において、Aという「極端な幸運」が存在するならば、その対極には、「極端な不運」が存在するはずである。すなわち、貧困な家庭に、醜悪な容姿と低い知能、そして重い障害を背負って生まれた者Bが、どこかに存在する。そうでなければ、世界全体としての確率の整合性は保たれない。
全体として平滑化されたとしても、各当人にとっては、その「偏り」こそが紛れもない現実に他ならない。
このランダムゆえに生じる不公平さが、自分にはどうしても納得いかなかった。
「なぜ、現実世界はこんなにも不公平なのか」
自分は間違いなく、確率的に「大得をした側」の人間である。ならばその反対に、確率的に大損をした人が存在する。
まるで、自分の負の部分を身代わりとしてすべて引き受けたような人間が、この世界のどこかに存在する。
いつしか、自分の中に、切実な願望が芽生え始めていた。
「自分の身代わりに、確率的に損をした人達を救いたい」
「確率的な理不尽さを、少しでも減らしたい」
「ランダムが生んだ不公平を、人間の意志によって是正したい」
「真に公平な世界を目指して」
歪んだユートピア――障害なき世界への危険な憧憬
確率的な理不尽さについて思索を深めていくと、自分は避けては通れない一つの「壁」に突き当たった。
それは、知的障害者の存在である。
先天的にせよ後天的にせよ、不運にも身体や精神に障害を負ったとしても、知的能力さえ担保されていれば、社会の中で価値を創造し、活躍する道はいくらでもある。しかし、その「知的能力」そのものに欠損があるという状態は、あまりに絶望的な確率的敗北であるように思えた。
「知能面において確率的に損をすることは、人間として致命的ではないか?」
「自立すら叶わない重度の知的障害者は、果たして人間と言えるのか?」
「知的障害者は、社会にとって単なる『お荷物』ではないか?」
若き日の自分の問いは、残酷なまでに純化され、一つの地点へと集約されていった。
当時の自分は、知的障害者に本質的な存在価値を見出すことができずにいた。
人道上、あるいは憲法上の観点から抹殺するわけにもいかないから、社会的な「綺麗事」として生かされているに過ぎないのだろう。
そんな冷淡な仮説を抱いていた。
その裏側にあったのは、「障害者のいない、真に公平な世界」という、極めて純粋で、歪な理想であった。
「この世界から障害者を完全に駆逐したい」
これを可能にするのは
医学
医学が進歩すれば、確率の偏りが生んだ不幸なバグを、すべて修正できるはずだ。
そう信じる自分にとって、「医師」という存在は、憧れと尊敬の対象だった。
しかし、実際に「医師になりたい」とは全く思わなかった。自分には「他者の生命を直接背負う」という重圧に耐えうるメンタリティが欠如していることを、何となく感じていたからである。
すべての自然科学は、根底で繋がっている。
ならば、「自分が物理の道に進んだとしても、間接的にでも医学に貢献できるはずだ」と、漠然と考えていた。
超絶なる抽象世界
自分の思考は、かつての「悪」や「死」といった実感の伴う事象から、より形而上的な領域へと昇華していった。
この時期、自分の抽象的思考は、人生における一つの極致に達していたと言える。
「答えなど出るはずがない」
「考えること自体が無意味ではないか」
そんな冷笑的な自覚がありながらも、思考の加速を止めることはできなかった。
「なぜビッグバンは起こった?」
「宇宙は無から誕生した?」
「無って何だ?」
「宇宙の誕生以前は、時間も空間も存在しなかった?」
「宇宙の真の大きさって、どれくらいだ?」
「宇宙の外側ってあるのか?」
「宇宙はいつか終焉する?」
「生命はなぜ、どうやって誕生した?」
「生命や人類は、何のために存在し、どこへ向かう?」
「宇宙がいつか終焉するなら、生命の存続って意味あるのか?」
「知性って何だ?」
「知性は人類の特権なのか?」
「この宇宙での知的生命体の誕生確率はどれくらいだ?」
「文明レベルが上がると、戦争はなくせるのか?」
この時期、ふと、自分と周囲との間にある埋めがたい隔たりを感じたことが何度かあった。
「自分だけ、思考があまりに純粋で、崇高すぎやしないか?」
宇宙、生命、そして人類――。
やがて、その抽象の果てに、自分は自らの進むべき道を明確な確信とともに描き始めていた――。
「人類の役に立つ人間になりたい」
理不尽への宣戦布告――悲劇の確率を削る
人類や地球文明の発展という崇高な理想を仰ぎ見つつ、一方で、目の前の理不尽な現実を修正したいという情熱が、静かに燃え始めていた。
現代日本における理不尽な事象は、大きく四つに分類できる。
- 自然災害
- 事件
- 事故
- 病気(障害)
中でも、小学生の頃から自分を苛立たせていたのは、「凶悪犯罪」という名の理不尽であった。4つの中でも特に際立つ理不尽さを感じ、とにかく凶悪犯罪を減らしたいと考えていた。
それを可能にするのは
科学技術
もちろん、政治、司法、社会学、心理学などあらゆる分野からのアプローチも重要だろう。ただ、そちらは文系に任せておけばよい。
「理系と文系が力を合わせれば、凶悪犯罪を極限にまで減らせるはずだ」
その時、漠然と抱いていた考えがこうだ。
この世界が本質的に確率的であるならば、悲劇が起こる確率そのものを削り取っていくべきだ。
自分は、一つの事件が発生するまでに存在するであろういくつかの分岐点を、「確率的ターニングポイント」と定義した。
ある事件が発生するまで、事象が確率的に「悪い方向」へ転ぶポイントが5回あるとする。もし科学技術の進歩や法整備によって、各ポイントの発生確率をわずか10%ずつ減らすことができたなら、最終的な悲劇の発生確率は劇的に低下する。
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微細な改善の積み重ねが、最終的な悲劇を4割近くも駆逐する。
ありとあらゆる手段を講じて、この確率の鎖を断ち切ること。
これこそが自分の使命であると感じ始めていた。
唯一性への渇望――存在価値を証明するために
やがて思考の刃は、自分自身へと向けられるようになった。
「自分はなぜ生まれてきた?」
「自分は何のために存在している?」
「自分の存在価値は何だ?」
――これらの問いの先に辿り着いた答え――
唯一性
「オンリーワンでありたい」
「世界で自分にしか成し得ない人類貢献をしたい」
「そうでなければ、自分がこの世界に存在している意味が無い」
この頃、自分の精神は、多くの人間が一生をかけても到達し得ない、超絶別次元の高みへと到達しつつあった。
大学受験――才能だけでは届かない世界
高校3年生となり、センター試験に向けたマーク模試が本格化する中、自分は明確に第一志望を定めた。
第一志望:東京工業大学第1類理学部物理学科
2年生の面談時に感じた運命的な直感は揺るぎなく、他の大学は眼中になかった。第二志望という概念すら希薄であり、滑り止めとして慶應義塾大学や早稲田大学を念頭に置く程度であった。
ただ、東工大合格という目標を掲げながらも、自分の中に「受験生」としての真摯な覚悟は芽生えていなかった。受験勉強したくないということではなく、親元を離れて大学という新たな環境に飛び出すことへの不安が大きく、最初から浪人したいと思っていた。同級生たちが自習時間中に必死に勉強しているのを横目に、自分は密かに持ち込んだゲームボーイアドバンスで、ポケモンの育成に精を出していた。
自分の受験生時代の成績は、母親が律儀にファイリングしてくれていたおかげで、すべて確認できる。
| 科目 | マーク模試 | 評価と分析 |
|---|---|---|
| 数学 | 160~195点 | 最高校内9位。進研記述模試では最高校内4位。 |
| 英語 | 120〜175点 | 長文問題の戦略皆無で、馬鹿正直に全文を読んでいた結果、校内平均を下回る。 |
| 国語 | 110〜150点 | 評論と漢文は割とよかったが、小説と古文が苦手。当然、校内平均を下回る。 |
| 物理化学 | 110〜180点 | 物理60~100点、化学50~85点。基礎力不足で安定せず。 |
| 現代社会 | 55~75点 | 「無勉でもほぼ中学知識で解ける(当時)」という理由で選択。 |
指導者の立場となった今振り返ると、どの科目においても自分の勉強法が正しくなかったことが、痛いほどわかる。しかし当時は、それを改善するきっかけが全く存在していなかった。
- 向上心の欠如:学力面や学歴面での上昇志向が皆無に近く、現状に不満がなかった。
- 方法論への無知:各科目ごとに「正しい勉強法」が存在すること自体を理解していなかった。
- 客観的視点の欠如:塾にも通っておらず、自分の学習法に対してアドバイスをくれる大人が周囲にいなかった。
- 情報の不在:まだインターネットが一般的ではなく、他者の学習スタイルを知る術も、有益な受験情報も皆無だった。
自分は、「テレビを見ながら問題集を眺めるだけ」という極端な学習方法で、このレベルを維持していた。そして、マーク模試・記述模試ともに、東工大の判定は常にBまたはCだった。
そして本番。
前期・後期ともに東工大、私立は慶應理工・早稲田理工を受験するも、結果はすべて「不合格」。
予定通り浪人することになった。
浪人生活――効率と執念の一年
浪人生活の舞台は、高岡市内の河合塾提携の予備校へと移った。
入塾時の成績が優秀であったため、授業料のうち5万円が返還された。高校時代に最も親しかった友人も同じ学び舎におり、共に授業を受ける時間は楽しかった。
さすがに二浪は選択肢になく、現役時とは違って東工大合格への想いが非常に強くなっていたため、人生で初めて100%の熱量で受験勉強に身を投じた。その時、常に考えていたことは
「日本で一番楽に合格してやる」
それは怠惰ではなく、徹底した「効率」への執着であった。
「受験の王道を歩むことこそが、最短距離である」
そう確信する自分にとって、「事前に問題を解き、授業でそのエッセンスを回収する」という予備校のスタイルは、かつて自分が学校教育に求めていた理想の形であった。
物理学への開眼――数式から現象へ
高校2年生以来、自分の中で「物理」と「数学」は未分化のままだった。物理を、数式をこねくり回すだけの科目として捉え、「解法暗記」に頼っていたため、物理の成績は常に不安定であった。
その混迷を打ち破ったのが、一冊の参考書――『橋元流解法の大原則』との出会いであった。
「物理は、単なる数式の操作ではない」
「現実の物理現象をイメージし、それを数式へと翻訳する学問である」
この本質を悟った瞬間、物理という科目は、自分の中で不動の得点源へと昇華した。
その結実として、河合塾の東工大オープン模試では9割の得点を叩き出し、全国12位として冊子掲載されるに至った。
センターの妥協と二次の逆転戦略
当時の東工大第1類は倍率が約5倍で、センター試験と2次記述試験の配点比率がおよそ1:3。
東工大合格者のセンター平均は8割5分ほどだったが、文系科目が苦手な自分は、センター試験を8割で耐え、2次記述試験で逆転合格する戦略を取った。
高得点を狙っていなかったこともあり、センター試験はほぼ平常心で受けることができた。
センター試験の結果(一浪)は、ほぼ予定通り 635/800 だった(当時は5教科6科目で理科は1科目のみ計算)。
| 科目 | ⅠA | ⅡB | 英語 | 国語 | 物理 | 化学 | 現社 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 点数 | 90 | 94 | 139 | 139 | 100 | 89 | 73 |
| 科目 | 点数 |
|---|---|
| ⅠA | 90 |
| ⅡB | 94 |
| 英語 | 139 |
| 国語 | 139 |
| 物理 | 100 |
| 化学 | 89 |
| 現社 | 73 |
東工大という唯一の聖域
自分が東工大を志望した真の理由は、世俗的な学歴への渇望ではない。親を喜ばせたいという報恩の念でもない。
それは、他ならぬ「人類に貢献したい」という、純粋で、かつ一点の曇りもない決意からであった。
何の根拠もないが、慶應や早稲田では駄目だと思っていた。
東工大で物理を極めてこそ、はじめて人類に資する知を生み出せる、そう盲信していた。
「自分よりも東工大合格に対して強い意志を持っている受験生など、この世に存在しない」
それほどの自負を抱き、自分は己の全存在を賭けて試験に臨んでいた。
審判の日――東工大2次試験
2次試験前の一週間、自分は都内のホテルに居を構えた。
その間に滑り止めとして、慶應・早稲田に加え、東京理科大、上智大、立教大を受験した。慶應・早稲田以外は余裕のつもりだったが、初戦の立教大学でまさかの「補欠合格」を食らう。二浪の影が脳裏を掠め、一瞬の焦燥が走ったが、最終的には慶應・早稲田を含む全ての私立大学から合格通知を勝ち取った。
そして迎えた、東工大の2次記述試験。
物理の試験終了後、解答が回収される瞬間に周囲5,6人の第1問の答案が視界に入った。
「え、みんなそれぞれ解答が違う・・・」
その瞬間、自分は「落ちた」と確信した。ショックのあまり、幼少期の母親との歩みから始まったこれまでの人生の断片が、走馬燈のように脳裏を駆け巡った。
「駄目だったか……」
志望動機が純粋であったからこそ、喪失の予感は耐えがたい重圧となって、自分を押し潰した。
東工大でなければ、自分は人類に貢献する道すら閉ざされてしまう。涙目で帰宅し、予備校の解答速報も見る気になれなかった。
後日、自宅に合否を知らせる封筒が届いた。家族も見つめる中で確認。
「あ、受かった」
不合格をほぼ確信していたので、第一声は落ち着いていたが、直後に喜びが爆発。
「やった!やったー!」
今更ながら予備校の解答速報を確認してみると、自分の解答こそが正解であった。
東大には届かなかった(目指してもいなかった)。
それでも、超難関大学に分類される大学に合格できたことは、言うまでもなく自分の人生における最大級の喜びであった。
このとき自分は、「日本トップクラスの大学で物理を学び、人類の発展に貢献できる」と、夢と希望に満ち溢れていた。
しかし、自分が歩もうとしていた輝かしい道の先に、まさか「仙水ルート」が存在していようなど、当時の自分には知る由もなかった。